【低学歴社会ニッポン】なぜ日本では文系大学院進学者が少ないのか?理由を考察してみた

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日本では文系の大学院に進学することは、理系の大学院に進学することに比べて「就職がしづらくなる」「社会人として使えなさそう」といったマイナスのイメージがついてくることが多く、就活で不利になるという話をよく聞きます。

さらにインターネット上では「やばい」「やめとけ」という声も聴きますし、また最近は稼ぐチャネルが増えたため、学歴不要論を唱える人もいます。

今回はなぜ日本で文系大学院進学が敬遠されるのかを考察します。

この記事は日本の文系大学院進学及び日本式就活による伝統的日本企業への就職を前提とした内容です。海外の文系大学院や外資系就活には対応しません。

そもそも「文系」「理系」という区分け自体がおかしい気もしますが…それは別の記事で。

目次

日本では文系大学院進学者が少ない

文系大学院への進学者は理系と比較して非常に少ない

平成30年度(2018年)のデータなので少し古いですが、分野別修士課程進学率に関する政府の統計を引っ張ってみます。

分野含まれる専攻進学率
理学数学/物理学/化学/生物/地学 等42.3%
工学機械工学/電気通信工学/土木・建築工学/応用科学/原子力工学 等36.3%
農学農学/農芸化学/農業工学/農業経済学/林学/獣医学畜産学/水産学 等24.1%
人文学文学/史学/哲学 等4.4%
社会科学法学・政治学/商学・経済学/社会学 等2.3%
出典:学士課程修了者の進学率の推移(分野別)

いわゆる「文系」の科目の学生数は分かりやすく「理系」より少ないですね。

諸外国と比較してもとにかく少ない

では諸外国の修士・博士課程への進学率はどうなっているでしょうか。修士号・博士号取得者数のデータから進学者数の規模感が推測できるので、そちらのデータを引用したいと思います。

まずは修士号取得者数から。人口100万人あたりの数字です。

年度人文・社会科学自然科学その他
日本200858412537782
201959211440177
アメリカ20082,1741,033498673
20192,5671,145891531
ドイツ20082,001827674500
20192,4848911,018575
フランス20081,5541,05648018
20192,1571,48161828
イギリス20083,0231,482912629
20204,6522,4161,392844
韓国20081,487637460390
20201,604795508302
出典:科学技術指標2022「人口100万人当たりの修士号取得者数のの国際比較」

諸外国における修士号取得者数のトレンドは人文・社会科学>自然科学&その他のようです。

人文・社会科学分野の修士号取得者数は日本が際立って少なく、テーブル内で2番目に少ない韓国と比較しても600人程度の差があるという結果にしかも年度の比較で唯一のマイナス成長になっています(分野「その他」を除く)。なお日本のみ人文・社会科学分野の修士号取得者数が他分野より少ないという結果に。

また修士号取得者全体の期間中の増加率をみると、増加率が一番少ないのは日本(101%)という結果になっています(ちなみにトップはイギリスの153%)。

日本の修士号取得者数がマイナス成長になるのも時間の問題かもしれません…。

続いて博士号取得者数。同じく人口100万人あたりの数字です。

年度人文・社会科学自然科学その他
日本20081311710113
2019120139314
アメリカ20082054812333
20182815618144
ドイツ2008312792258
2019315662436
フランス2008169651031
2019167571082
イギリス20082868119211
202031311318416
韓国20081915311523
202031210217930
出典:科学技術指標2022「人口100万人当たりの博士号取得者数のの国際比較」

博士号取得者数になると、日本以外の国でも自然科学分野の博士号取得者が人文・社会科学分野を上回るという結果に。しかし日本の人文・社会科学分野の博士号取得者が際立って少ないのは変わりません。

年度の比較でみると日本とフランスのみ博士号取得者数が減少しています(※フランスの減少数は2なので誤差程度)が、自然科学分野の博士号取得者数が2桁台にまで減ってしまったのは日本だけです。

日本は科学技術大国だったと思うのですが、地盤沈下が著しいですね…。

修士号・博士号取得者数のデータ全体からの結論として、日本は総じて大学院進学者自体が少なく、人文・社会科学分野(いわゆる文系)への進学者はそれに輪をかけて少ないといえます。なぜこうなってしまったのでしょうか…。

筆者が考える「日本で文系大学院進学者が少ない理由」3点

端的に言うと、以下の3つが理由として大きいと思います。

  • 大学合格が受験のゴールになっているから
  • 学部時代に深い学びをしない/できないから
  • 就活とその後のキャリア形成で損をするから

順に見ていきます。

大学合格が受験のゴールになっているから

高大接続の不備と大学受験のためのテクニック要素としての文理選択

文理選択は、自分が将来的に学びたい学問や就きたいキャリアを実現しやすくするために高校で学習する科目を絞っていく過程です。

ですが、実際はより偏差値の高い大学に入るための短期的なテクニック要素と化している側面があることも否定できません。科目選択を受検戦略と捉える場合、たとえ入試で点が取れない科目を選択することは、興味関心のある分野であっても自殺行為に等しいということになります。

なお高校の成績は(指定校推薦以外では)基本的に問われないので、一般入試を受験するのであれば高校の勉強をどんなに頑張って内申点を上げても「興味関心はあるけれど試験で点の取れない科目」の穴を埋めることはできません。(なお諸外国では高校の成績が卒業後に受験できる大学のランクに直結していることが少なくないため、ランクの高い大学に進学するためには高校で良い成績を取る必要がある。一方で日本では授業中に内職をする学生が多くみられる。)

そして興味や長期的展望よりも合格可能性にばかり目がいくようになります。

しかも日本における大学学部入試は(リベラルアーツではなく)出願時点で学科を絞って出願する方式。高等教育について何も知らないような状態で具体的な学問領域を選ぶことになり、結果としてふわっとしたイメージで専攻を選ぶしかなくなります。そしてますます、文理選択で選択しなかった方に触れる機会が減ります。

例えば、数学が苦手というだけで文系を選択していたようなケースだと、この先、理系に進む道はほぼ完全に閉ざされてしまうということです。

しかし当然ながら、「本人が学びたい分野や興味のあるキャリア」よりも「得意/苦手科目」「高偏差値大学への受検戦略」を優先してしまうと、もし合格しても勉強へのモチベーションを保つことが難しくなります

ここでモチベーションの下がった学生は、通常(海外)であれば興味のある学科に変更したり、ミスマッチから良い成績を修めることができずに留年したり退学したり…といったことになると思いますが、後述のとおり(幸か不幸か)勉強しなくても卒業できるシステムが整っているので、「その専攻を修めた」証明は得ることができます。

一応は大学を卒業した(その学問を修めた)ことになるので、これは成功体験として積み重なっていくことになり、同じシステムが継続していくことになります。

これは企業が大学における専門性を評価しない遠因としても機能するので当然良い循環とは言えないのですが、日本における新卒の就職活動において、日本企業は大学の成績や専門性はほぼ問わないので特段問題は生じません。(ただし外資系転職や海外留学には大いに影響します。つまりこのシステムにどっぷり漬かってしまうと海外に行けなくなる可能性が高まるということに。)

さらに近年は、変化のスピードがますます速くなる社会事情に対応するために新しい分野や学際横断的な分野が次々生まれています。こういった分野は「文系・理系」という区分けになじまない場合も多いため、社会の課題に柔軟に対応できる人材育成という観点からも、「文系・理系」にこだわることはデメリットになり得ます。

相対的な数値である「偏差値」を崇拝する風潮

偏差値は基本的に「同じ条件の母集団の中で自分がどの位置にいるか」ということを示す指標です。受験生の中でどのくらいの位置にいるかは示せても、大学の教育レベルや国際的評価を測るためのツールとしては全く使えません。

つまり、合格可能性を考える際に特定の学部を志望する他受験生との比較から合格可能性を測る際には一定の有用性がありますが、異なる母集団や条件では基準にはなり得ません。

日本で偏差値が基準としてある程度機能するのは、日本の大学(学部)入試が基本的に日本語で行われる&現役合格が重視されることから、大学受験の母集団=大半が日本で初等・中等教育を受けた日本人(もっと言えば飛び級・留年が滅多にないので、ほぼ全員が高校三年生)となり、同質性が高い母集団が存在するという図式が完成するためです。

しかし、世間的には偏差値(=入学難易度)がいわゆる頭の良さの指標として用いられることも多く、また偏差値は模試等様々な機会で引き合いに出され、他の受験生に対して競争心を煽るツールになります。

結果として偏差値の高さを追い求めることになるのは自然な流れなのかもしれません。

偏差値が目的になってしまうと、大学の特色や教育内容に関係なく偏差値の高い大学に合格することが「受験成功」を意味するという思考になってしまいます。

なお海外には「偏差値」という概念はありません。「同質な母集団」という前提条件そのものが成り立たないからです。同じ教育を受けたからといって、個人の特性や能力を同じ指標で測ることなんてできるのでしょうか…?

専攻したい分野について考える時間・機会がない(与えられない・作れない)

高校生のうちに興味のある分野やキャリアを描ければよいのですが、これまでの日本では大学の専攻が必ずしも活かせない直線的キャリアを歩んできた人が多いため、興味を活かそうとしてもロールモデルが周りにいない場合がほとんど。

前述のように「何となく専攻を選んだけれど何の問題もなく卒業・就職できた」成功体験を積んでいる人が多いので、「学問の面白さ」「専攻をしっかり選ぶことの重要性」について語れる大人が非常に少ないのです。

この点は(10代前半には自分と向き合って職業人生を含む「生き方」を決める)アメリカやヨーロッパの学生と互角に戦えるだけの専門性や教養、独自性が身につきづらいことと決して無関係ではないと思います。

最近はオンラインサロンやウェブコミュニティがあり、比較的ロールモデルを見つけるのは易しくなりましたが、その情報にたどり着いて最大限に活用するためには、必然的に他の人と違うことをする必要があります。

同調圧力が強く未だに特定の進路しか考慮しない思考に囚われている人(教師・学生の両方にその傾向がある)が多い学校空間において、そこまで突き抜けられる学生がどれだけいるかは正直疑問です。

学部時代に深い学びをしない/できないから

学生側の事情:大学で必死に勉強することは「コスパ」が悪い

大学合格がゴール

偏差値のみを念頭に置いた場合、受験勉強は学びたい学問のスタート地点に立つためでなく合格自体がゴールになります。

何のために大学で勉強するのか?を突き詰めていないため、モチベーションが人によってバラバラで、学業に対し熱心な学生は少なくなります

卒業も難しくない

学びに対するモチベーションが低い状態だと進級や卒業が危うくなりそうですが、日本の大学は後述の理由から、よほどのことが無い限り卒業できます

また後述のとおり大学での学業成績は(日本の)就活で問われないため、高い成績をキープする必要もありません。

日本の大学では成績評価&GPAの認定基準が統一されていないので、企業が採用時に学業成績を参考にしづらいという面もあると思います。

新卒一括採用の流れに乗る限り、大学で頑張って勉強することは「コスパが悪い」行為なのです。

なお大学学部における成績(GPA)は海外進学(修士・博士)や海外就職の際に大きく影響するのですが、そこまで考えている学生が少ないのであまり問題として扱われることもありません。

海外の名門大学院はGPAによる足切り基準を設けているところが多く、学部時代の成績(GPA)が低いと門前払いになってしまう可能性もあります。

大学側の事情:教授・学生のモチベーション管理と大学(授業・就職率)の評価向上

学生が授業について来られない・教授にとって授業はサブタスク

学生のモチベーションがまちまちのため、特に目的意識のない場合は授業内容についていけなくなります。授業で良いパフォーマンスが発揮できなければ単位を与えないのは当然ですが、実際にそうしてしまうと学生の間でそのことが瞬く間に広がってしまいます。

その結果、モチベーションの低い学生はいわゆる楽勝授業に集中するようになります。

学生側にデメリットはありません。

また教授にとってもあくまで授業で教えるのはサブタスク。あくまで研究活動がメインなので、リスク(学生からの評判が下がる)を取ってまで学生に厳しい評価を下す(=成績の低い学生を落第させたり、卒業基準に満たない学生を留年させる)ことは稀です。

授業評価が出回り、楽勝授業に人が集まる

ソーシャルメディアが発達した現在では、授業の評価は瞬く間に広まります。厳しい教授の授業には低評価が付けられ、授業の質が疑問視されることにつながります。

学生人気を求めるのであれば、単位を甘めに付けざるを得なくなります。

授業内容を易しくすることで授業のレベルや議論の密度が低下するため、元々興味関心があって受講している学生であっても、徐々に興味関心が薄れていくことになります。

一方で楽勝授業に流れない学生は立派ですが、結果として楽勝授業に流れた学生よりも良い成績を取るのがムリゲーに。しかも真面目に頑張ったにも関わらず、成績が求められる場面(大学院留学が代表例)になると上記の楽勝授業コレクターよりも不利な状況になります。

これでは真面目に学んでも報われません。

高いGPAをキープする文化のある海外では、好成績が取りやすい科目に学生が集中することはあるようです。

就活に振り回される学部生活後半

早期化する就活

近年、就職活動の開始時期はどんどん前倒しになっています。

現在はもはや2年生の冬にインターンを獲得できていないだけで就活自体が厳しくなってしまうと聞きます。状況的に学業のみに集中しているとそのような情報を逃してしまう可能性があるため、多方面に気を配ることになります。

成績は就活では重視されないため、学業の優先順位は低めになります。

通年採用であればこんなことにはならないのに…

アカデミックかプロフェッショナルかの二者択一を迫る産業界とそれに対応する大学

3年生になると会社説明会や面接が入ってきます。

学業に配慮しない企業は平日にスケジュールを入れるため、必然的に授業の出席が厳しくなります。遠方にも関わらず対面による面接が求められると最悪。時間や費用といった全てのリソースが持っていかれます。

結果として授業に身が入らなくなり、学びは中途半端なものになります。

ただしそれを大学側も分かっているので、一時的に出席条件を緩和したり、就活イベントで欠席した学生が不利にならないような措置を講じます。就職率も大学が選ばれるための重要なファクターなので、アカデミックな目標達成を犠牲にしてでも就職率を上げることを選びます。

これは大学経営においても学生の今後の人生においても(新卒一括採用の流れに乗りやすくなる)メリットのあることなのです。短期的には。

これは国からの補助金の減少によって、よりシビアに経営を考えなければならない大学が増えていることと無関係ではないでしょう。

それでも理系には大学院に進学するモチベーションがある

これまでの流れだとそもそも大学院に進学する学生がかなり少なりそうですが、理系の場合は就職のためにある程度の深さで研究実績を積む必要があることから、(分野によりますが)かなりの学生が大学院に進学します。

元々大学院を見越している場合も多ければ、学部の学びが大学院に直結する場合も多い。

一方で文系はそのようなインセンティブというか目的がないため、特定の職業を目指す場合(ロースクールなど)を除き、学問の探求を目指すごく一部の学生のみが研究を行うためにアカデミックな大学院に進学します。

他に文系で大学院に進学する層としては、就職に失敗した学生も一定数含まれるかもしれません…。

就活とその後のキャリア形成で損をするから

就活プロセスで直面する壁

文系は職種に直結しない

理系と異なり、文系はその専攻内容が職種に直結することが少ない傾向があります。

そのため特に文系の場合、学業成績や専攻の内容について聞かれることはほとんどなく、聞かれたとしてもその内容が選考に直接影響を与えることは少ないと言えます。

頑張って勉強して良い学業成績を修めていたとしても、その努力は企業にとって評価対象にはなりません。

「学歴」よりも「大学歴」が大事

企業は採用に際し文系に専門性を求めないため、地頭の良さ(と従順さ)の指標として学歴(学士・修士・博士といった学位のレベル)ではなく大学歴(どの大学の学部を卒業したか)でフィルターを掛けます。

また後述の年齢の関係もあり、定年までの期間より長く勤務できる若い人材を求めます。

なおここで有名な大学院を卒業していたとしても関係ありません。大学院から有名校に入るのは学部に入るより競争率が低いことが知られているので、見られるのはどの大学の学部を卒業したかのほうです。

無名大学の学部から有名大学の修士課程・博士課程に進学している人の場合は、ひどいと学歴ロンダリングのレッテルが貼られて評価が下がることもあります。理不尽。

それ自体も絶対的ではない学部の偏差値を基準が全く異なる大学院にまであてはめようとする思考回路が意味不明です。

定義できない「社会人経験」に基づくマイナスイメージ

日本の企業ではジョブディスクリプション(職務記述書)を作成していない、あっても曖昧なことが多く、ふんわりとした「コミュニケーション能力」を求められることが多いです。

新卒一括採用に起因して「社会人のマナー」「社会人基礎力」なる企業に都合の良い人材を育成するための謎のフレーズがまかり通っているのも状況を悪くしています。

文系の場合職務と結びつく専攻が少ないため「コミュ力」が求められるのは前述のとおりですが、職務経験がないことでいわゆる「コミュ力」を鍛える場が少ないことから、実際に協調性が足りなかったり、(敬遠する方便として)「オーバースペック」と捉えられることになります。

就職してから直面する壁

学卒・院卒で給与の差は生まれない

「理系」は学部→大学院で研究内容が深く狭くなり、分かりやすく専門性が向上する傾向がありますが、「文系」の場合は大学院に進んでも明確に職種につながるような専門性の向上はみられません。

つまり、実際に文系大学院に進学した経験がある採用担当者でない限り、「文系」の学生は学卒も院卒もほぼ同じに映るということです。

「文系」の場合は「学卒」も「院卒」もポテンシャル以外の判断基準が無いため、給与に差をつける理由が見つかりません

入社年齢のギャップ

修士課程や博士課程を卒業すると、年齢的にいわゆる「新卒」「第二新卒」に引っかからなくなる場合があり、その場合は更に強く「社会人経験(≒企業人経験)」を求められるようになります。

海外では博士課程は給与が出るほどキャリアの一環として認められますが、日本で「学生」と「社会人」は対義語。つまり「学生」でいることと「社会人」でいることは両立しません

「社会人経験=企業人経験」と捉える企業の場合は、新卒と同じか同年代よりもちょっと低いポジションからスタートすることが多くなります。

年齢によるプレッシャーが強く均質性の高い日本で同じ職務なのに自分だけ年齢が高いことに耐えられる人は果たしてどのくらいいるのでしょうか。

ジョブローテーションと活かせない専門性

日本企業では採用の入り口が一般社員と幹部候補で分かれていないため、ひとまず全員が幹部候補

企業は幹部(ゼネラリスト)を育成するため、幹部候補の社員に様々な部署を転々とさせ、社内全体について理解を深めさせます。

この方式は、幹部候補から外れた社員やスペシャリスト型の社員にとって、専門性が身に付かないというデメリットとして作用する場合が少なくありません。

またポストや職種を限定して採用された場合であっても、そのポストや職種が不要になっても簡単に解雇できません。そのため一定期間を経るとローテーションに巻き込まれていくことになります。

職種別採用制度や社内FA制度を導入している企業に入らない限り、仕事の分野を選ぶのはなかなか難しいと言わざるを得ない状況です。

日本は学歴社会じゃない?

ここからは筆者が見聞きした海外(西欧・シンガポール・中東あたりが中心)における「学歴社会」に軽く触れます。

日本式の「学歴社会」を否定する意図は特段ありません。

そもそも大学に入るのが厳しい

日本は「大学全入時代」と言われて久しいですが、海外ではそもそも大学自体が日本ほど多くありません(日本で言ういわゆるFランク大学はほぼ存在しない)。

そして、国によっては大学(学士)の入学資格自体の保有者も限られます。

例えばシンガポールでは、小学校卒業のときから試験による選抜がスタート。アカデミックに進むか技術学校に進むかが大体決まります。ここで失敗しても挽回は不可能ではないものの、かなりの時間と労力を要します。

小学生でも普通に落第する社会もある(主にフランス)ので、入学時点の年齢もバラバラになっていきます。

卒業するのも厳しい

やっとのことで大学入学資格を得て晴れて大学に入学できても、安心はできません。日本とは比較にならないほどのインプットとアウトプットを求められることになります。

大学を出ても仕事のスキルは身につかない?

よく「大学を出ても就職に必要なスキルは身につかない」という話を聞きますが、これは大学が「学問の場、探求の場」であり「就職予備校はでない」ことから明らかです。

海外では学業の他に自分でインターンを見つけ、即戦力になるべく訓練を積みます。インターンの条件には必ずと言っていいほど専攻分野が含まれており、学生も将来のキャリアに応じて専攻を選んでいるので基本的に職場内のミスマッチは生じづらい仕組みになっています。

日本は新卒であれば即戦力であることが求められない(社会で教育する前提)ため、インターンが発達しません。ただし、専攻を問わないためミスマッチは増えます。

就職はジョブ型。地頭の良さだけでは職は得られない

大学を卒業しただけでは職には就けません。即戦力にならないからですね。

新卒一括採用はないので、空きポジションに応募します。ここでも専攻分野がカギを握ります。つまり、「大学で何を学んできたか?」が強く問われるわけです。

大学名が問われることもありますが、ポジションによって必要となる素養が個別に設定されているため「○○大学卒であればOK」とはなりません。むしろ「大学名は問わないから○○を専攻した人物」が重要です。

勉強しつづける社会。Ph.Dは最強の肩書き

就職してからも、そのまま出世していくわけではありません。例えば平社員からマネージャーになりたい場合、マネージャーのポジションに応募して採用される必要があります。

マネージャーには平社員と異なるジョブディスクリプションが規定されていますので、平社員として成果を上げても必ずマネージャーになれるとは限らず、マネージャーとしての素質が別に要求されることになります(MBAはそのような素養と肩書を習得する場所だったりします)。

つまり、常に自分の能力向上に努める必要があります。

同じ分野で転職を繰り返してレベルアップしていくのが基本なので、能力が高ければ転職先には困りません。途中でステップアップのために修士課程や博士課程に進学するのも普通です(EMBAやPh.Dに進学する30代・40代が多いのも特徴)。

そして、給与水準は明確に「学士<修士<博士」となっている場合が多いです。結構な差があることも。特に博士は肩書はMr.やMs.からDr.に変わり、尊敬される存在になります。

なお終身雇用制度は基本的に存在しないので、高い生産性を発揮しないとクビになる可能性も(フランスの会社はそのあたり安定しているという話を聞いたことがあります。真偽のほどは不明)。

個人の戦闘力をひたすら高め続けるような感じですね。

欧米その他式「学歴社会」と日本式「学歴社会」

これまでの内容をまとめると以下のような感じに。いわゆる「文系」分野の話です。どちらが良いということではなく、あくまで違いの話として捉えてください。

「日本は学歴社会じゃない」という言説は欧米式を中心に据えると納得できると思います。

(ただし、日本式学歴社会で上手くいっても欧米で通用しないことがあるのは事実だと思います…今まさに筆者がスイスで感じていること)

スクロールできます
項目欧米その他式「学歴社会」日本式「学歴社会」
大学進学資格選抜を勝ち抜いて手に入れる高校卒業資格があれば平等に与えられる
大学の選び方優先順位は「専攻→ブランド」
専攻・学位レベルが将来に直結(縦の学歴)
優先順位は「ブランド→専攻」
大学ブランドが将来に直結(横の学歴)
大学の過ごし方学業に集中・そこそこ遊ぶ
学業に支障がない程度にインターン
学業そこそこ・とにかく遊ぶ
就活が学業を侵食(最近は就活前倒しでさらに学業を侵食)
就職活動自分のタイミングで空きポジションに応募(採用されるのは専攻の合った即戦力のみ)
学業成績もある程度重要
超有名大学ならポテンシャル採用があることもある
新卒一括採用
大学ブランドさえ良ければ地頭は良い前提だから学業はイマイチでもOK
中途採用の場合は就職方法だけ欧米その他式(即戦力か否かの判断)(ただし選考基準と就職してからの人事管理は日本式「学歴社会」ベース)
キャリア観配属・ポジションは自力で勝ち取る
終身雇用は基本的にない
自分で勉強して能力を高め続ける
転職・ブランクは自発的にOK。心象にはあまり影響しない
ポータブルスキル・専門スキル中心。社内・組織内スキルはあまり意識しない
配属とポジションは選べない。上司・会社の都合でコントロールされる(終身雇用の代償)
自分で勉強しても昇進・昇給には直結しないから、勉強しない
転職回数の多さ・ブランクは心象が悪い
ポータブルスキル・専門スキルはあまり意識しない。社内・組織内スキル中心
学位の考え方学士<修士<博士の順に給与・ステータスがアップすることが多い
博士課程は仕事。給与が支給される
自分のタイミングで上位学位や二つ目・三つ目の取得を目指す場合も
学士中心。修士・博士は学士と給与が変わらないか、専攻によっては低くなるパターンも存在(社員は社内で育成するため)
博士課程は学生。学費支払いが必要
就職してから上位学位を取得してもメリットが少ないため消極的
年齢の考え方大体の年齢プランはあるものの、人生のタイミングはそれぞれ異なるという前提
年齢ごとのステップは皆バラバラ
飛び級あり
ポジションと年齢はあまり関係なく、スキルがあれば若者でも管理職になれる→若者でも高い給与が得られる可能性がある
大体の年齢に応じてプランを組む
大学生・就職等、年齢はだいたい同じ
飛び級なし
年功序列。スキルがなくても若いだけで採用される&ポジションに年齢基準(ある程度以上の年齢に達していないと就任不可)がある→若者の給与水準が低くなる
総括学習歴(学卒<院卒(修士<博士))社会
強者が生き残る厳しい社会(その分給与水準は高くなる)
自分のやりたいことのある人や大きく稼ぎたい人には可能性のある世界
大学名(学卒)社会
そこそこでも生きられる社会(その分給与水準は低く抑えられる)
狭めの社会性重視。個人の価値観や夢はあまり重視されない世界
向いているタイプ自分で人生の舵取りをしたい
成果に見合った報酬が欲しい
常に成長を追い求めたい
高い給与を得たい
英語その他外国語で仕事をしたい・できる
ポジションを渡り歩く身軽な人生が好き
偶然を楽しめる
同じ場所で長く働き続けたい
日本や地元が好き
日本語だけで仕事が回る環境で働きたい
給与はそこそこ貰えればOK
例外もたくさんあると思いますが、ひとまず。

このように違いを比較してみると、日本式の「学歴社会」は横並びでブランドを気にする「横の学歴社会」、欧米式の「学歴社会」は専攻と学位レベルを意識する「縦の学歴社会」と言えるかもしれません。

このようにかなりギャップのある「学歴社会」の考え方ですが、もし日本の「学歴社会」自体を欧米その他式「学歴社会」に接続させるならどうすれば良いか、少し考えてみました。結論はこんな感じ。

  • 学位が得られる「大学」を旧帝大・私立は早慶上理とGMARCHくらいまでに制限。他は学位の代わりにディプロムが得られる「技術訓練校」扱いに。少なくともFランク大は廃止
  • 新卒一括採用・終身雇用制度・年功序列を廃止。通年採用・キャリア自律を基本に
  • 企業別組合から産業別組合に
  • 高校卒業までにはC1(IELTSかTOEFL)程度の英語力を身につけ、学部から海外進学できるようにする
  • 義務教育段階での落第・飛び級を制度化。年齢による横並びを廃止

極端ですが、個人的にはこれくらいしないと海外と同水準の生産性や給与体系を実現するのは難しいと思っています。

日本式「学歴社会」から欧米その他式「学歴社会」に個人として参入するのは意外と簡単かも(ただしその後は実力主義)

昨今は日本の低賃金が話題。ワーホリビザで出稼ぎという話もメディアを賑わせています。

ワーホリは期間限定ですが、もしも「低賃金な日本を脱出して長期的に海外で稼ぎたい!」というような場合は、必然的に左側(欧米その他)の世界に移り、左側のルールに従って生きることになります。

筆者の主観ではありますが、日本式「学歴社会」で育ってきた人は、以下の点で左側(欧米その他)で生まれた人よりも左側社会の上位にアクセスしやすい要素があると思っています。

  • 日本と欧米その他の「学歴意識」の違いがあまり知られていない→「遊んでいても卒業できる日本の大学の学位」が「遊んでいては卒業できない欧米その他の大学の学位」と同等に扱われる→海外のトップ大学・大学院に(他の国籍者と比較して)容易に入学できる可能性がある。
  • 日本と欧米その他の「キャリア観」の違いがあまり知られていない→「スキルを問わない新卒一括採用で得た職」が「スキルで戦う欧米その他式就活で得た職」と同等に扱われる→欧米その他での就職活動時にキャリアがそのまま職歴として活かせる可能性がある。(ただし畑違い部署に異動を繰り返す典型的な日本的キャリアを一定期間歩んでしまうと厳しい)

ただしこれらは多かれ少なかれ「無知や誤解」を基に生じるメリットなので、もちろん「アクセスするまで」しか通用しません。

晴れて「左側の世界」にたどり着いた後は、遅かれ早かれ教育機関や職場において「左側で生まれた超優秀な人々」と競争することになります。そこでギャップを埋められるかはその人次第。

まとめ

今回は日本で文系大学院進学が敬遠される理由を考察してみました。

筆者の考える日本で文系大学院進学者が少ない理由は、まとめると以下のとおりです。

  • 学びたい分野よりも大学名を重視:有名大学合格がゴール。学問への興味やキャリア意識は問われない
  • 在学中に専攻を突き詰めるインセンティブがない:学ばない学生と学んでも報われない学生を量産
  • 分野や年齢の問題&専門性が活かせない企業ガバナンス構造:キャリア形成にプラスに働かない

文系大学院のデメリットは日本の教育システムと企業ニーズとのミスマッチにより引き起こされていると思います。

いずれこれらのデメリットが留学の場合はどう影響するのか/しないのかについても記事にしたいと思います(多分留学終了後)。

以上です。

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