【日本は学歴社会じゃない?】日本人と学歴社会の不思議な関係について考察してみた【結局は地頭が全て】

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ジュネーブに留学して当たり前のように聞くようになった博士課程(PhD)進学の話。

日本だと社会科学系では博士課程どころか修士課程にも進学する人は少ないのが現状ですが、こちらではかなり状況が異なり、30代の修士課程在籍者だと社会科学系であっても現在の修士課程は2つ目(いわゆるセカンドマスター)という人もちらほらいます。

ヨーロッパでは学士課程よりも修士課程、修士課程よりも博士課程のほうが給与は高くなりますし、特定分野の学位がないと就職できなかったり、役職者になれなかったりすることも普通なので、当たり前の行動といえるかもしれません。

一方で日本で「学歴社会」と言う場合は学位よりも学部の難易度(偏差値基準)が大きなファクターになっているように感じますし、就職や出世の際に学術的な専門分野(特定分野の学位を持っていること)や一定以上の学位が必要になる(修士号や博士号の取得を要件とする)という話もほぼ聞きません。この傾向は文系学部で顕著です。

この記事では「もしかしたら日本は学歴社会ではないのでは?」という発想を出発点として、筆者の考えを述べたいと思います。

いわゆる文系の視点なので、理系その他の分野では当てはまらない内容もあります。

目次

日本は学歴社会であると言われる理由

まずは日本が学歴社会であると言われる理由を考えたいと思います。

中卒・高卒・大卒で就職の選択肢が大きく変わる

まずは中学校を卒業した時点・高校を卒業した時点・大学(学部)を卒業した時点でそれぞれ就職活動をする場に、選択できる就職先や職種の幅がかなり異なるという点です。

確かに中卒や高卒だとそもそも応募できる職種や勤務先の数が非常に限られたり、所属する学校が関与するシステムになっていて本人の選択肢が極端に少ないということもありますし、日本の大企業の多くは大学学部卒業者に対してのみ明確に門戸を開いており、そこから大学のブランドで選別を行ったりします。

そしてそのような差は生涯賃金の差として如実に表れてきます。

「中卒・高卒だと特定の階層にアクセスできない」という現実がある以上、日本が学歴によってフィルターをかける社会であることは疑いようのない事実だと思います。

入学難易度の高い大学を卒業していると社会的評価が高くなる

日本の大学は一定の年齢に達していれば誰もが受験可能で、一般入試に限って言えば、数教科のペーパー試験(一部小論文など)を突破できれば誰でも東大をはじめとする有名大学に入学が認められます。

受験生の大半が日本で教育を受けた高校3年生ということで、受験生の条件は基本的に全員がほぼ同じである(という前提がある)ことを考えると、合否を分ける要素としては「本人の努力」「地頭の良さ」が大きなウエイトを占めるはずだという結論に至ります。

この考えから出発すると、競争率の高い大学・学部に合格したということが本人が努力できるポテンシャルであったり個人の能力の高さを示すための重要な指標になります。

大学(学部)の難易度は偏差値というかたちで数値化されているので、例えば「A大学に合格したX君はB大学に合格したY君よりも能力が高いだろう」という比較が簡単にできるということになります。

就職した後も出身大学名が付いて回る

中卒・高卒・大卒といった指標や、卒業した大学名は就職時だけでなく転職時にも問われることがありますし、出身大学名が話題に上ることもあります。

テレビやラジオでは大学名を冠した番組が制作されることがありますし、時事ネタを扱うニュース番組はもちろんバラエティー番組でも出身大学名が表示されるなど、大学名が「頭の良さ」「知識の豊富さ」を示すほぼ絶対的な指標として使用されることも多いです。

出身大学名をネタにして見下したり、逆に謙遜するような場面も良く見かけます。早慶、GMARCH、Fランク大学のような括りを前提に「どこからが高学歴?」と問うような話題は人気ですね。

学歴社会とは何か

さて、ここまでの話だと日本における生きやすさや評価は学歴に大きく左右されるため日本は学歴社会であると言えるかもしれません。では、学歴社会とは何なのでしょうか。

ここでは「学歴社会が根本的に何を指すのか?」という疑問について、筆者がヨーロッパをはじめとする海外で感じた学歴に対する共通理解を整理します。

学歴=学習歴=専門性

まず「学歴」が何を示すかというところですが、共通理解といえるのはざっくり言うと「どの学問領域をどこまで究めたか?」という程度を示す指標であるというところだと思います。

この指標の判断基準として重要なのは学位と専門領域(選択科目の内容や成績)です。

つまり、学歴の高低は学士課程<修士課程<博士課程という違いで厳然と判断されますし、さらに何を勉強(専攻&選択科目)してどのように社会や学問領域に貢献したか(論文&学術活動)ということが強く問われます。

企業や組織もその点を非常に重視しており、例えば会計を扱うポジションの募集であれば会計学を専攻した人を探しますし、一定以上のポジションではより高い専門性の証明(博士号)か学位の不足を補うだけの相応の経験年数や業績が必要になることも一般的です。

学位の違いは専門性やスキルの程度に直結するため、給与水準の違いというかたちで表れます。

さらにどのような科目を選択したか?どのような成績を修めたか(GPA)?ということもよく見られます。例えば、同じ社会科学系の学部でもデータ分析に関係する科目(統計学や計量的分析など)を多く取った場合と思想に関係する科目(政治哲学や歴史学など)を多く取った場合では、応募できるポストや評価が違ってきます。

上級学位を取得するために修士課程や博士課程に進学する際はさらにGPAも重要な要素として響いてきます。

ブランド校は海外でも確かに存在する

とはいえ、大学のブランドが全く問われないわけではありません。実際有名校は存在します。アメリカだとアイビーリーグ、イギリスだとオックスブリッジやゴールデントライアングルといった括りが有名です。

ただし、その括りの基準は入学難易度はもちろんその大学がどの学問領域で有名かという基準も入ってくるので、全ての大学をランキング付けするようなことはほぼ無理。なお日本も早慶上智・関関同立のような括りがありますが性質は全く別です。

もちろんランキング付け自体は行われており、日本でもよく取り上げられるTHE世界大学ランキングやQS世界大学ランキングのような指標はありますが、絶対的ではありませんし、むしろ総合大学や自然科学に強い大学に有利になりやすいといった批判もあります。

世界中の大学を格付けしているにも関わらず自国の大学に有利に働くようなランキングすらあります。

実際、特定の分野で世界的に著名な大学でもランキング下位になるということは良くあります(社会科学系世界最高峰のLSEのランキングが不当に低いというのは良く言われる)し、そもそも複数の機関が異なる指標でランキングを作成しているのでランキングはかなり上下します。

つまり、どこの大学を出たか?は重要ですが、それよりも何をどの程度専攻したか?が一番重要になってきます。

日本は本当の意味で学歴社会と言えるのか?

では上記を前提に改めて日本の社会を見ていきます。結論から言うと、日本は上記の条件に必ずしも当てはまらないため、「日本は(海外で意味するところの)学歴社会ではない」という結論が導かれます。

学習内容・学習歴が必ずしも評価の対象にならない

「学歴社会」では、学士→修士→博士という順番で給与や待遇が上がっていきますし、卒業大学名よりも「そこで何を学んだか」「そのうえで何ができるか」が重視されます。そして、専攻した分野は基本的に職業選択に直結します。

しかし、日本では専攻内容と関係のない職業を選択することができますし、転職や昇進に際し特定分野の学位を保有していることも特段問われないことがほとんどです。

組織によっては卒業した学校名によるバイアスを防ぐために学校名を伏せる場合すらあります。

また、他国と比較すると日本では学士・修士・博士で待遇差をあまり付けません(就学期間を考慮する程度)し、修士や博士を卒業した場合、下手をすると年齢の関係から就活で不利になるとさえ言われます。

さらに、スキルを身につけて市場価値が上がるはずの留学であっても、就職活動の時期がずれることを恐れて敬遠する向きもあります。

つまり、学習内容や学習歴と待遇がほぼ正比例するという「学歴社会」とはちょっと違う様相を呈しています。

昇進や転職に学位要件がない

「学歴社会」では、管理職や政治家のようなプロフェッショナルは、海外の場合は基本的に何かしらの専門性を有しており、その裏付けとして博士号(少なくとも修士号)を持っていることが多いです。

大企業や国際機関の管理職に匹敵するポストの場合、特定レベル以上のポストに応募には特定分野の特定レベルの学位の保有が要件としてほぼ確実に課されています(大抵の場合修士以上)。

つまりそのような組織ではどんなに仕事ができたとしてもある程度の学位を保有していないと管理職には就けません。

一方で日本の場合、雇用の流動性もまだまだ低く、管理職の選任は内部人材の昇進によって行われる場合が多いように感じます。

専門分野の有無については年齢や求人内容によっては厳しくチェックされるものの、海外のように学位が重要なファクターになることはあまりありません。

偏差値で大学や学生のレベルを測る

「学歴社会」では、確かに学校間のレベルはあるものの、基本的には共通の指標はなく、学校同士のレベルの比較をする場合には「●●学においてより権威があるのは●●大学」という考え方をします。

そのためたとえランキング順位が振るわない大学であっても、特定の学問領域において権威があったり進学すれば将来の希望のキャリアが開けると考えられれば迷わずそのような大学に進学するわけです。

そして、その学問の権威と呼ばれる大学には、建学の歴史や著名な卒業生、立地条件など、その道に優秀な人物を輩出するだけの条件が揃っているものです。

一方で日本の場合は、大学の実力よりも大学の入学難易度が学歴ブランド付けにおいて重要な役割を果たしています。その基準となるのがいわゆる「偏差値」。

偏差値は大学の実力ではなく受験生という母集団を基準にした値ですが、「偏差値が高い=入学難易度が高い=その大学はブランド力が高い&そこの合格者は能力が高い」という図式が完成しています。

特に受験人数の多くかなりの数の学生が同じ入試問題に挑むことになる学部入試は、一般に院試よりも難易度が高くなる(もちろん単純比較は不可能です)ため、難関大学の学部の入試を突破したこと(もしくは突破できなかったこと)を人生で重視する人も多いです。

ここから早慶上智、GMARCH、日東駒専とったいわゆる予備校が作った偏差値をベースにした入学難易度のランク付けが非常に重い意味を持っていくことになり、それが派生すると専攻内容や学位の差を一切考えずに「日東駒専は低学歴」と言うような人が出現するわけです。

偏差値はあくまで入学難易度の差でしかなく学習歴とは全く関係ありませんし、「学歴社会」であれば同じ学位であれば基本的に学校の違いによる上下は生まれないはずなのですが…。(極端に言えばハーバード大学の学士でもFランク大の学士でも学位としては基本的に同じ価値ということになります。)

小括:日本は「学歴社会」ではない

以上の点を「学歴社会」の定義と照らし合わせると以下のとおりになります。

学歴社会の定義日本の現状
何をどのくらい学んだか(&貢献したか)を重視専門性・学位はそこまで重視しない
給与・待遇は中卒<高卒<学士<修士<博士必ずしもそのような図式は成り立たない
学位が就職・昇進のフィルターになる学士フィルターはある。修士・博士フィルターはあまりない
専攻分野に基づいて大学を選ぶ入学難易度(=偏差値)に基づいて大学を選ぶ

日本はいわゆる「学歴社会」とは何だか様子が違いそうです。

日本は学校歴社会?

日本が「学歴社会」であるというのはちょっと微妙な気がします。「何をどのくらい学んだか」よりも卒業した大学の名前を重視するからです。そう考えると、日本は学校のブランドを重視する「学校歴社会」と言えるかもしれません。

では、日本では本当に学校名が絶対的な価値を持っているのでしょうか?

どこの大学を卒業したかが何より大事?

日本が学校歴社会であると仮定すると、以下のような図式が成り立つことになります。

  • 下位学位を取得した大学よりも有名な大学で上位学位を取得することで社会的評価が高まり、好待遇が期待できる

最終学歴が有名大学であれば給与の高い仕事に就く可能性が高まるので、最終学歴の大学名を塗り替えるために有名大学に上位学位を取りに行く人がたくさんいることになります。

学校歴に含まれるのは学士課程だけ?

先ほど、学部の入試が院試より難しい傾向があるという点に触れました。そのことを重視してか、学士号を取得した大学よりも有名な大学で修士号や博士号を取りに行くことを「学歴ロンダリング」と揶揄することがあります。

つまり、大学院に進学してもどの大学の学士課程の入学試験を突破したかが付いて回るようです。

履歴書上の最終学歴は文句なく大学院卒になっても学部時代を過ごした大学の名前が大学院の名前よりも重視される機会があるということは、日本が単純に「学校歴社会」であるとも言えないかもしれません。

たとえ本人は気にしなくても、日本社会では一定程度の人がそのような考え方をするということは、学部入学試験の難易度がどれだけ重い意味を持っているかの証拠だと言えそうです。

ちなみに海外ではこのような概念はなく、修士課程を終えた時点で最終学歴は修士になり、スキルセットも修士課程を修了した大学院が基準になります。

学士課程の大学名は基本的に「今何が出来るか」には大きな影響がないので、職業選択や専門性に関する話題では取り上げる意味があまりありません。ちょっとした話題として言うか言わないかレベル。

小括:日本は「学校歴社会」でもない

日本が単純に「学校歴社会」であれば、みんな積極的により有名な大学でより高い学位を取りに行こうとするはず。

ですが「学歴ロンダリング」のように最終学位と関係なく学部入試の難易度を基準とした大学ブランドを前提とする学歴の捉え方があったり、実際に修士課程・博士課程へ進む人口が少ない事実がある点とも辻褄が合いません。

しかも同じ学校名であっても入試の方式(AO入試や指定校入試は一般入試合格者に劣るなど)を気にするパターンもあり、大学で何を勉強したかはもはや全く考慮されないレベルです。

ここまでくると、学習歴や大学名よりも、どこの大学の学部入試を突破したかを重視する傾向があると言えそうです。

じゃあ日本は一体何社会なのか?

これまでの項目で日本は「学歴社会」でも「学校歴社会」でもないのかもしれない…という結論に至りました。ではなぜこんなにも学部卒が、ひいては学部入試難易度がここまで日本で重要視されるのでしょうか。

そのうえでの仮説は日本は「学部入試難易度至上主義社会」なのではないかということです。

日本ではなぜ大学で何をしたか(学歴)ではなく偏差値の高い大学・学部の合格歴が重視されるのでしょうか。大学卒業後最初に「学歴」が問われる新卒一括採用というフィールドにおいて、学部卒が高卒や大学院卒と比較して有利になりやすいのはなぜか?という観点から考察してみます。

(高卒でもなく院卒でもなく)学卒を採用したい理由

上記を踏まえると、学部卒(よく言う「大卒」)が大きなフィルターになる理由を考えるには、高卒にも院卒にもない学部卒の特徴に着目する必要がありそうです。

学部卒の属性
  • 22~24歳くらい
  • 画一的な入学試験を突破している(=ある程度のポテンシャルがあることが推測できる)
  • 専門性はあまり期待できない
  • 人生経験はあまり多くないが一般常識はある程度備えている

ちなみに高卒&院卒の属性は以下のような感じ。

高卒の属性
  • 18~19歳くらい
  • 客観的な評価指標が学校の推薦くらいしかない(=採用側としては当たりはずれが大きい)
  • 人生経験は多くない。一般常識を備えているかどうかは人による(=採用側としては当たりはずれが大きい)
院卒の属性
  • 20代後半~
  • 人生経験がある程度豊富になってくる(就労経験は人による。採用側としては当たりはずれが大きい)
  • 専門性が高い
  • 自分でプロジェクトを回す力がある(特に博士号保持者)
  • 好きな分野・嫌いな分野の差がある程度はっきりしている(配属や配置転換の取り扱いが難しいかも?)

一方で日本型雇用の特徴は以下のとおり。

日本型雇用の特徴
  • 総合職として若い新卒を採用したい
  • 職務に必要な知識や技能は社内研修で習得させる
  • 配置転換や転勤を組織都合で行う
  • スキルの低い状態の労働者を低賃金で雇い入れる年功序列の賃金体系

それぞれ比較してみます。

スクロールできます
日本型雇用で求められる人材高卒学部卒院卒
ポテンシャルの高い若い学生を雇い入れたい△(少し前まで未成年&ポテンシャル未知数)○(地頭&努力できる素質あり)×(学部新卒よりも年齢は上)
組織に都合の良いスキルセットを身につけてほしい。基本的にゼネラリストになってほしい。△(ポテンシャル未知数)△(既にある程度の専門性がある。スペシャリスト傾向が強い?という偏見が企業側にある)
組織都合の配置転換・転職△(従ってくれなさそう)
(賃金・待遇に不満を言わない)従順な労働者が欲しい△(従順かどうかは人による)○(就活システムで洗脳済み)△(従順かどうかは人による)
※筆者の主観を多分に含みます。

この条件に一番馴染みそうなのはやはり学部卒と言うことになりそう。新卒一括採用を続ける企業の「地頭の良さがある程度保証されていつつも企業に都合の良いルールを疑問なく受け入れる人物を採りたい」という本音が透けて見えるようです。

そう考えると、学部卒でフィルターをかけるのは合理的なのかもしれません。(ストレートに言うと学部新卒が一番社畜適正が高いということです)

一方で、高卒や院卒の属性は日本型雇用では学部卒ほど条件に合致しなさそうです。

もちろん人に寄りますが、ざっくり分けるとだいたいこんな感じ。

日本のゼネラリスト信仰と専門バカの壁

日本型雇用の大きな特徴が入社時点では基本的に全ての社員が管理職候補であり、管理職=組織の全てを把握しているゼネラリストという観念があること。

基本的に入口は同じ&入社後数年は全く差をつけずに異なる部署を転々とするというのも、後々社内の複数の部署に関する知見を持ち組織を引っ張っていけるゼネラリスト育成のため。

その条件では、「何かを究める力」や「未知数のポテンシャル」よりは、「ある程度の難易度の試験を突破した」という事実から推察可能な「地頭の良さ」が重要視されるのは当然なのかもしれません。

短期間に多くの部署を経験しても、地頭が良ければそれぞれの経験を上手く整理して組織のために活用してくれそうです。

また専門性を持っている(と考えられる)「修士号」「博士号」保有者は「専門バカ」と呼ばれて敬遠されることも残念ながらあります。個人に価格競争力があったり専門分野があったりすると組織都合でゼネラリストに育成することが難しい可能性があることを考えると、こちらも辻褄が合います。

こちらは完全なイメージでしかないのですが、学部卒なら満たしそうな要件を明確に満たさなくなるという事実があるので、採用しない口実を補強するには都合の良い発想といえるでしょう。

会社組織にトレーニング機能がある日本社会では高等教育に多くを求めていないという前提もありそうですね。

偏差値=比較しやすい指標=地頭信仰

また「偏差値」はほぼ全員が同じような属性の日本人が上下を付けるために用いられることが非常に多いです(冒頭に上げた「○○大学以下は低学歴」のような発想)。

このような話題においては、「入試を突破するためにどのような努力をしたか?どのような戦略を立てたか?」よりも、「地頭の良さ」にフォーカスすることが多いです。

なぜこのような話題が人気になるかと言うと、個人の能力を比較する指標が他にあまりないからですね(他の指標としては例えば「年収」が挙げられるかもしれませんが、「地頭の良さ」の証明にならない&ランク付けしにくいからか、偏差値に基づくランキングの議論ほどは過熱しない)。

繰り返しにはなりますが、宗教や人種や出自が全く違う人々が混在する社会や、高等教育を受けられる層が限られる(初等教育段階で厳しい選別があったり、家柄によって進学できる学校に制限があったりする)ような社会、ペーパーテストで合否を判定しない(進学するモチベーション、課外活動、学業成績などで判断する)ような社会では偏差値という概念がそもそも機能しませんし、入学難易度で比較しようという発想がありません。

大学の価値とは無関係である「偏差値」を基準に、学歴を語ったり他人と比較することができる(と錯覚している)のはおそらく日本だけです。

最近はエンタメレベルにまで昇華している部分もあるようですが、諸外国との違いと日本の今後の学術振興を考えると、日本がこの認識で留まっているのは割と危険だと思います。

結論:日本は地頭崇拝社会

日本の学歴フィルターは学術的な専門性や業績ではなく、どこの大学の入試を突破したか(=どれだけ地頭が良いか)、ということを重視する社会であるといえるでしょう。

そして、その基準で判断すると学部卒の時点で採用するのが一番効率が良いということになります。高卒や院卒では能力が足りなかったり、採用意図を果たせない可能性が学部卒より高くなるからです。

学部卒を基準とした学歴フィルターはそのまま就職難易度につながり、それが人生の難易度となることによって、偏差値が「人の素質を比較するための指標」として人々の関心を多く集めるようになったのではないでしょうか。

これまでは新卒で入社した会社を辞めることは稀でしたし辞めさせられるようなこともあまりありませんでした。そうなると、余計に新卒採用時の地頭の良さは人生の重要なファクターになっていたのかもしれません。

まとめ

学歴がエンタメになる日本は平和で特殊。でもこれからの世界では勝てない

最近は新聞や各種メディアで取り上げられることが増えたように思いますが、日本は学部進学率が高いだけで世界的に高学歴者(「学歴社会」基準で言う「修士号」「博士号」保有者のこと)が多いわけではありません。

むしろ日本は学歴を問わない社会といっても差し支えないと思います。学卒フィルターは学歴を重視しているわけではなく、学卒という属性に着目しているだけですからね。

「何ができるか」よりも「どう見られるか」が重要な社会ということを反映しています。

日本は個々人の明確な能力差で測ることのないですし、学位の有無で人生の可能性が閉ざされる可能性が諸外国と比較して低いため、学歴がエンタメにもなる土壌があります。その意味では「平和」な社会と言えるでしょう。

ただし「修士号」や特に「博士号」で得られる成果を完全に無視しているような今の状況では、日本のイノベーションが立ち遅れていくのは当然の帰結なのかもしれません。実際優秀な研究者が海外大学に高額で引き抜かれたという話題も度々目にします。

個人的には人文科学・社会科学系の大学院卒業者の待遇を改善すべきと思いますが、自然科学分野の大学院卒業者が優遇されたり、CSやSTEM領域を収めた人が優遇されたりするのは海外でも同じなので、そのあたりは簡単には括れないのが現実だったりします…

海外の「学歴社会」はかなり過酷

海外で言う「学歴社会」はそのまま「ジョブ型雇用」とリンクしているので、非常に合理的ですが同時にとてもドライです。

例えばシンガポールでは小学校を卒業する時点で受ける試験の結果で大学への道が開かれたり逆に閉ざされたりしますし、厳格なエリート主義が敷かれているフランスでは特定の学校(主にグランゼコール)に行かないと職業選択の幅が極端に狭くなったりします。グランゼコールについては後々取り上げたいと思いますが、日本の入試の何倍も厳しい選別が行われると聞いています。

不思議なめぐり合わせでグランゼコールに在籍することになったので、そのあたりもいずれご紹介できれば。

また就職してからも保有している学位のレベルと領域によっては一生昇進できません。なので高い学位を取りに行ったりします。能力向上は自己責任という発想なので会社が助けてくれるかは微妙なところ。

これらを考えると、「学歴社会」=「学習歴を重視する」、という構図は変わらないものの、その「学習歴」を手に入れることそのものが非常に難しいという現実もあるでしょう。

どちらが良いという話題ではなくて…

本稿ではいわゆる「学歴社会」の定義を確認し、日本が「学歴社会」と言えず、さらに「学校歴社会」と呼ぶのも微妙であり、結局は入試難易度から推測できる地頭の良さが最も重要なファクターであるという結論に至りました。

日本はそこまでの「学歴社会」ではないもののイノベーションや科学技術が頭打ちになっていくことが見える社会、一方の冒頭で定義した「学歴社会」は個々人の能力や業績が厳しく問われる社会。

そして、それらの概念はいわゆる「メンバーシップ型雇用」や「ジョブ型雇用」と深く結びついています。学校(というか教育機関)がそれぞれの社会に適合した人材を輩出するからですね。

それぞれにメリットとデメリットがありますが、ひとつ確実なのは、日本における採用プロセスで目に見えるスキルや専門性よりも地頭を優先できていたのは、これまで終身雇用という制度が存在し、各企業が社員をトレーニングするという懐の深さと財政的な余裕があったことは無視できません。

日本企業の余裕が失われ「ジョブ型雇用」に転換していくということは、日本も海外同様の厳しい「学歴社会」に移行していくことも意味します。シンガポールやフランスのような形式に急に転換することはないにしても、その流れはもはや自明といえるでしょう。これは個々人の選択の問題ではなく社会の流れの問題なので、良し悪しでは判断できません。

国家公務員は博士号取得者の初任給を上げるみたいですし、この流れは今後加速していくかもしれません。リスキリングは言うまでもなく、自分の専門性を自分で管理する時代がもうすぐそこまで来ているのかも。

以上です。

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