香港とシンガポール。
ふたつの都市を旅の途中で思い出すたび、なぜか甘いものの記憶が浮かび上がってくる。
今回は、そんな「スイーツ」を軸に、過去と今とを静かに行き来する旅の記録をまとめてみました。
味そのものだけでなく、その場の空気や一緒にいた人、あのとき感じていた感情。
ひと口の甘さが記憶をつなぎ、都市と都市の間にそっと橋をかけてくれるような、そんな瞬間がありました。
この記事では、香港とシンガポールで出会ったスイーツを手がかりに、記憶の層をたどってみたいと思います。
観光ガイドでもグルメレビューでもありませんが、誰かの旅の記憶にも静かに重なるものがあればうれしいです。
プロローグ
シンガポール駐在時代のシンガポール人の同僚と東京で久しぶりに再会した。日本旅行に来ているみたい。
当時の日本人の同僚も集まって楽しい飲み会。
たった二年だったはずのあの生活が、なぜこんなにも濃く、懐かしく感じるのだろう。それぞれの今の暮らしぶりの話と当時のエピソードが次々に出てくる。大変だったプロジェクト、職場の愚痴…まるであの頃に戻ったような気分に浸れた夜。
一夜限りの再会は短く、そして少し照れくさかった。
でも、そのあとの余韻は、思っていたよりも長く自分の中に残った。
折しも香港関係のブログ記事をいくつか執筆していたとき。香港旅行の記憶がシンガポールの日々とオーバーラップする。
思い返すと、香港を旅していたときに不意に思い出したのは、かつての香港旅行の思い出ではなくシンガポールの記憶だった。仕事帰りや休日にオーチャードの高島屋の地下でよく買った香港発のエッグタルト店。広東語の店名はすぐに出てこなかったけれど、エメラルドグリーンの内装を見て、頭の奥では確かに記憶が動き始めていた。
国境や時差を超えて、記憶の奥からそっとやってくるあの日の味。 旅先でふと出会った味に、蒸し暑いシンガポールでの日常が重なるとき。
心は再び国境を越えていた。
楊枝甘露と遠い日の思い出
旅先でスイーツを食べたくなるのは、たいてい夜だ。
観光の喧騒がひと段落し、夕食を終え、ホテルに帰るにはまだ少し早い。そんなとき、ふらりと立ち寄った甘味店で小さな椅子に腰掛け、冷たいデザートをひと口すくう。その瞬間に訪れる静けさが好きだ。
香港でそんな夜を過ごしたとき、手にしていたのは楊枝甘露だった。小さなガラス容器に入った、鮮やかな黄色と白のコントラストが美しいデザート。スプーンですくうと、マンゴーの果肉とタピオカの粒がやさしく揺れる。冷たくて、甘すぎなくて、どこか懐かしい。
記憶がふっと重なった。あれは、シンガポールにいた頃。友人とブギスの甜品店「阿秋甜品」に並んで、夜遅くまで話しながら食べた楊枝甘露。湿った夜風、にぎやかな人通り、英語や中国語が混じった雑踏の音、漢字と英語が並ぶメニュー。香港の夜景の中に、ブギスの風景が静かに入り込んでくる。
仕事帰りに一人で食べたこともあったし、職場の同僚と食べたこともあったこの味。あの頃の感覚が数珠つなぎに蘇ってくる。
スイーツが記憶を引き出すのは、味だけのせいじゃない。スプーンの重さ、空調の音、隣のテーブルの話し声。そうした些細な要素がすべて、その都市での「時間の流れ」を連れ戻してくれる。
ひと口、またひと口。
気づけば僕は、香港の夜の片隅で、シンガポールのあの夜に触れていた。
重ならなかった記憶の輪郭
香港とシンガポールで、同じようなスイーツを食べたことがある。 でも、どこか違っていた。
味ではなく、距離感のようなものが。
たとえば、カヤトースト。 僕にとってはシンガポールの定番で、ヤクンのセットを頼んでコピを飲むのが日常の一部だった。トーストボックスやファントーストでもよく食べていたな。仕事の前に立ち寄ったり、休日のブランチ代わりに食べたり。あの甘くて香ばしいカヤと、かりっと焼かれた薄いパンの食感。
スーパーで売っていたカヤジャムで再現しようとしたけれど、上手くいかなかった思い出も。あのカヤジャムは結局食べきれなかった。
ところが香港で見かけたカヤトーストは、洒落たカフェで提供されていて、値段も高めだった。雰囲気はこれぞ南国!という感じで素敵。味も、きっと悪くないだろう。それでも僕は頼まなかった。 それは、どこか「自分の知っているカヤトースト」とは別物に思えたから。
亀ゼリーも、そうだ。 香港でもシンガポールでも食べたことがある。でも、感じ方は微妙に違っていた。香港では薬草の香りが強く、苦味もしっかりしていて、本当に「体によさそう」だった。シンガポールで食べた亀ゼリーもその点は同じ。でも、シンガポールの夜、むわっとする蒸し暑さの中で食べた亀ゼリーのほうがより解熱効果が感じられるような気がして、自分にとってはより色濃く残っている。
同じ広東文化圏でありながら、都市の気配や生活の文脈が変わると、味に対する心の構えも変わってしまうのかもしれない。
そして、エッグタルト。 これは完全に「香港の味」のはずなのに、僕の中ではシンガポールの記憶として残っている。オーチャードの高島屋にあるお店でなぜか毎回2つ買って、コンドミニアムの冷蔵庫に入れていた日々が懐かしい。あの頃はフレンチプレスで淹れるコーヒーにハマっていたな、なんてことまで思い出す。コロナ禍で国際線が激減していたチャンギ空港で、アツアツのエッグタルトを食べたこともあった。
今回の香港旅行でも、このお店をヴィクトリア・ピークで見かけた。相変わらず大人気だ。でもなぜか、買う気が起きなかった。
どれもこれも、街と時間と気持ちとが結びついてできた「僕だけの味」だった。
もう届かない輝き
シンガポールで親しんでいた甘味のいくつかは、香港には存在しなかった。あるいは、存在していたとしても、僕の前からは姿を消していた。
例えば、ニョニャクエ。鮮やかな色合いともちっとした食感、ココナッツとパンダンリーフの香り。プラナカン文化が色濃く残るシンガポールならではのスイーツだった。
特にショーウィンドウに並べられたカラフルなBengawan Solo のニョニャクエは、好きでよく試していた。あの店のフルーツケーキも好きだったな。ドライフルーツがふんだんに使われていて、子供の頃に食べたパウンドケーキに似ている懐かしい味。
そんなスイーツを味わうたび、憧れの海外にいる自分を噛みしめていた。
でも香港では、そんなお菓子には一度も出会えなかった。
鮮やかすぎる緑や紫のスイーツを売る店も、優しい味のフルーツケーキも見かけない。文化の違いといえばそれまでだけれど、僕にとっては「大切だったのに、なかった」という事実のほうが強く心に残っている。
チェンドルもそうだ。
緑のぷるぷる、パンダンの香り、ココナッツミルクのやさしい甘さ。オーチャードやブギスのフードコートで食べたあのチェンドルが、いまでも一番好きだった。冷たくて甘い、というよりは、暑さを鎮めてくれる薬のような感覚だった。香港にも似たようなデザートはあるかもしれない。でも、あの緑のチェンドルにだけ宿っていた「日常の解熱剤」としての役割は、別の街では成立しないように思えた。
「ない」ことで、より鮮やかに思い出される味がある。
香港名物のエッグタルトだって、確かに「ある」のに「ない」。
きっとあのエッグタルトよりも美味しいエッグタルトなんて、香港にはごまんとあるだろう。最近大人気のBakehouseとか、きっと最高に美味しいはず。でも「ない」。
思い出せるのに、もう戻れないこと。その不在の感覚が、旅の途中で立ち止まらせてくれる。
自分だけの地図を描くように
香港とシンガポール。ふたつの都市の記憶は、似ているようで、違っている。そして時に、思いがけないところで重なり合う。
それを感じたのは、満記甜品(ハネムーンデザート)を香港のショッピングモールで見かけたときだった。特徴的なフォントは遠くからでもすぐにわかった。シンガポールにいた頃、職場の上司を連れて行ったこともあったし、自分一人でも何度か通った。
あの頃は、デザート休憩をする場所というよりも、初めての事ばかりのシンガポールでは数少ない「行ったことのある海外」を感じられる、いわば心の避難所のようなところだった。
香港で見かけたその店舗は、記憶の中のそれよりもずっと小さくて、以前よりも格段にオシャレになっていた。でも、僕は自然と店の前で足を止めていた。メニューには例の芒果班戟(マンゴーパンケーキ)の写真がある。かつてシンガポールで食べた、あのふわふわとした鮮やかな黄色の生地に包まれた冷たいマンゴーとクリームの感覚が、思い出とともに蘇る。
そのとき初めて、「同じ味が別の街にあること」に対して、うれしさを感じた気がする。それまでは、どこかで無意味な比較とないものねだりを繰り返していた。でも、あの瞬間だけは、たとえ少し違ってもいい、つながっていればいいと思えた。
都市と都市を行き来しても、完全に同じ味なんて存在しない。でも、同じ名前の看板を見かけたり、似たような匂いが漂ってきたりするだけで、記憶の回路が静かに開いていく。そんなふうにして、記憶の中の都市たちは、互いに橋をかけ合っていくのかもしれない。
「ない」ことを知ることで、見える世界がある。
言いようのない寂しさを覚えることもあるけれど、それはもしかしたら、とても幸せで贅沢なことなのかもしれない。
スイーツは、そういう記憶の橋を渡るための小さなきっかけになる。甘いものを一口食べることで、僕はまた別の都市にいた自分を思い出す。そして今の自分を、過去と未来の間にそっと置き直す。
僕にとっての旅は、そんなふうに記憶を行き来する時間でもあるのだ。
エピローグ:新しい街へ、旅は続く
旅を振り返るとき、写真よりも鮮明によみがえるものがある。それは、ひと口で思い出が立ち上がるような、味の記憶だ。
今回の旅は、どこかを目指すというより、かつての自分と都市との関係を静かにたどり直すようなものだった。あのときは気づいていなかったけれど、甘味はその案内役だった。どのスイーツも、ただ「おいしかった」では済まされない。それぞれに思い出があり、誰かがいて、時間の流れがあった。
味が記憶を呼び戻すのではなく、記憶が味を更新していく。だから旅の途中で食べた一皿は、いつか別の都市でふいに思い出され、違う物語をつなぎはじめる。
そして今、この味覚の記憶はヨーロッパに場所を移して大絶賛更新中だ。
旅が終わっても、甘さの記憶は消えない。それは、かつて確かに生きていた時間の欠片であり、今の自分に静かに重なる柔らかな証拠。少しずつ失ったり変わったりしながら、それでもずっと残っていく。
次にどこを訪れるとしても、きっとまた、甘さの中に誰かとの時間や自分の軌跡を探してしまうだろう。
そしてまた、新しい記憶が、どこかでそっと甘く残るのだろう。
振り返ることでしか認識できないような、かすかな気配を積み重ねて。
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