日本では高級時計や国連のイメージが強いジュネーブ。あまり知られていませんが、ジュネーブは中世から現代までの幅広い年代で文学との関係が深い土地柄だったりします。
面白いのが、偉大な文豪が滞在・居住していたという歴史以外にも、ハリウッド映画で一躍有名になった「フランケンシュタイン」や「ドラキュラ」の原案が生まれた場所でもあるということ。
この記事ではジュネーブゆかりの文豪やジュネーブの環境から着想を得て書かれた作品をご紹介します!
本記事は授業の一環で調査した内容を再構成したものです。筆者は歴史の専門家ではないため内容は薄めです。
ジュネーブゆかりの文筆家たち
ジュネーブはその政治的背景やリゾート地としての地位から多くの文筆家を惹きつけてきました。
ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)
まずは「人間不平等起源論」や「社会契約論」といった著作で有名な哲学者・ジャン=ジャック・ルソー。
ルソー家の先祖はプロテスタントに対する迫害から逃れるためにジュネーブ(当時はジュネーブ共和国)に移ってきたという過去があります。
彼が活躍したのは18世紀なので300年近く経っていますが、ルソーの生家は今もジュネーブの旧市街に残っています。同家は現在「ルソーと文学の家Maison Rousseau et Littérature」という博物館になっており、彼の思想を分かりやすい展示で後世に伝えています。
フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(1768-1848)
フランス王政復古期の政治家でありロマン主義の先駆者・フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(シャトーブリアンとして有名)も何度か(1805年、1831年、1832年)ジュネーブに滞在していたことがあります。
インディアンの悲恋物語を描いた小説「アタラ」や社会の狭間で苦悩する若者を描いた小説「ルネ」といった作品が代表作です。
日本では肉の名称としてのシャトーブリアン(ステーキ)の方が有名かも?
ジュネーブについては著作「パリからエルサレムへ」(1811年)に記載があり、啓蒙思想の中心地としてのジュネーブに着想を得ることがあったようです。
ジュネーブのレマン湖畔には彼の名前を冠した公園があり、若者で賑わっています。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821-1881)
「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」といった名作で有名なロシアの文豪・フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーも一時(1868年)ジュネーブに滞在していました。
彼が住んでいた住居は残っていませんが、住居のあった場所にパネルが設置されています。
当時ドストエフスキーは二番目の妻アンナとのハネムーン中(スイスの他にドイツやイタリアなどの国も巡っていた)。彼らのジュネーブ滞在は、アンナが妊娠していたことから彼女の体調を慮って医療体制が整ったジュネーブを選んだという側面もあります。
もうひとつの有名作品である「白痴」の執筆に着手したのもジュネーブ滞在中でした。
ハネムーンであることには変わりないのですが、アンナとの結婚を親族に反対されていたため駆け落ちのようなかたちでヨーロッパを転々としていたというのが真相みたいです。
ただ彼自身はジュネーブの街があまり好きではなかったようで、ジュネーブのことを「退屈で、醜く、鬱々としている」と評しています。
ドストエフスキーのジュネーブのイメージを決定づけたのが、娘ソーニャ(ソーニャはあだ名で本名はソフィア)の出生と死。ソーニャは1868年の3月にジュネーブで生まれましたが、5月に亡くなっています。
彼女の葬儀は当時建造されたばかりだったロシア教会Église Russeで執り行われ、遺体は王の墓地Cimetière des Roisに埋葬されました。
ロシア教会と王の墓地は現存していますが、彼女の埋葬場所は明らかにされていません。
ソーニャが亡くなってから程なくして夫妻はジュネーブを離れたようです。
マーク・トウェイン(1835-1910)
世界的に有名な児童文学「トム・ソーヤーの冒険」を執筆したアメリカの小説家・マーク・トウェインも旅行記「地中海遊覧記The Innocents Abroad」(1869年)や「ヨーロッパ放浪記A Tramp Aborad」(1878年)で他のスイスの都市とともにジュネーブに触れています。
彼のヨーロッパでの経験は作品に大いにインスピレーション与えており、ジュネーブの場合は様々な文化や言語が交錯する国際性が重要な要素となったようです。
ホイヘ・ルイス・ボルヘス(1989-1986)
「伝奇集」や「砂の本」で知られるアルゼンチン出身の作家・ホルヘ・フランシスコ・イシドロ・ルイス・ボルヘス・アセベード(ホイヘ・ルイス・ボルヘスとして有名)は1914年から1918年の間旧市街に滞在していました。
ボルヘスが最初にジュネーブに移り住んだのは家族の事情でしたが、晩年に滞在先としてジュネーブを選んだのはこの都市の国際政治や外交の中心地としての側面も大きかったと言われています。
実際ジュネーブは彼の作品で秩序、正確さ、中立の象徴として描かれることが多くその事実を物語っています。
後年ボルヘスはジュネーブでの日々のことを「不思議なほど幸せ」だったと振り返っており、同時に10代を過ごしたこの街を酷評したことを後悔しているとも語っています。
なお彼は2回ほど来日しており、1986年6月に亡くなる数ヵ月前には日系人のマリア・コダマと再婚しています。少しだけですが日本と縁がある感じがしますね。
彼の遺体は王の墓地Cimetière des Roisに葬られています。
ジュネーブゆかりのキャラクター
またジュネーブの環境は時代背景と結びついて現代も愛される魅力的なキャラクターを生み出すに至っています。
フランケンシュタイン
「フランケンシュタイン」の作者であるメアリー・シェリーは、1816年に後の夫であるパーシー、ジュネーブで知り合ったバイロン卿とバイロン卿の医師であるジョン・ウィリアム・ポリドリと共にジュネーブのレマン湖畔で夏を過ごしていました。
メアリー・シェリーも結婚を反対されたことからパーシーとともにジュネーブに逃げてきていたような状況でした。ドストエフスキーといいジュネーブは駆け落ち先として人気のようです…
1816年は火山の噴火(インドネシアのタンボラ山の噴火)によって引き起こされた異常気象の影響でヨーロッパと北アメリカの一部で「夏のない年」と呼ばれるほどの寒冷な夏が続いていたことから、彼らは屋内で過ごすことを余儀なくされていました。
そこで憂さ晴らしとしてバイロン卿の提案で各々が怪奇譚を構想し(いわゆる「ディオダティ荘の怪奇談義」)、メアリー・シェリーが考案したのが「フランケンシュタイン」の物語(原題は「現代のプロメテウス」)です。
単なる怪物ホラーストーリーで終わらないのが深いところ。
こちらは現代におけるフランケンシュタインのイメージを構築したと思われる映像化作品。それぞれの違いを比べてみると面白いかも。
「フランケンシュタイン」誕生の背景には、鬱々としたジュネーブの気候の他に、当時流行していた「動物電気」の実験やそこから派生した「死者蘇生」といった概念にメアリーとバイロン卿が関心を寄せていたということもあるようです。
ジュネーブ中心部のプランパレ広場には「フランケンシュタインの怪物」像が設置されていますが、説明が全くないので知らないと何だか分からないかもしれません。
また彼らが夏を過ごしたヴィラ・ディオダティも現存しています。
ヴァンパイア
いわゆる吸血鬼「ヴァンパイア」の物語が現在の形になったのも、実は「フランケンシュタイン」が考案された怪談談義が関係しています。
こちらの発案者はバイロン卿の医師であるジョン・ウィリアム・ポリドリ。
彼の書いた短編小説「吸血鬼」は吸血鬼像に大きな影響を与え、現在の貴族然とした吸血鬼像やゴシックホラーストーリーの先駆けとなりました。
色々な吸血鬼像が堪能できる小説集ならポリドリの作風がより理解できるかもしれません。
まとめ
本記事ではジュネーブに関係のある文筆家やキャラクターのうち、日本でも比較的名の知られた人物やキャラクターを紹介してみました。
こうやってみるとジュネーブという都市の多面性が見えてきて面白いですね。
ただあまり手放しにジュネーブ万歳!という人がほぼ居なそうなのが気になりますが、それもきっとジュネーブの味なのでしょう。
以上です。
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