論文執筆のために、一時帰国中、再び実家に滞在することを決めた筆者。
久々の日本は落ち着くし、両親にこんなに頻繁に会えるのも、何だかんだ言って嬉しい。
ただ少しだけ気になる点もあって…。それがテレビ。
実家のリビングで一日中流れているのはテレビ朝日のワイドショー。朝と夕方は絶対、それも毎日。テレビに映るのは、大谷翔平の話題、芸能ニュース、政治がらみのニュース(内容は大体スキャンダル)、そして社会問題(最近は備蓄米問題ばかり)。「今知るべき情報を伝えている」はずなのに、なぜか「勝手な解釈や感情」のようなノイズも混じってくる不思議。どのニュースにも通底するのは「誰かを断罪する」ための空気。
素人や異なる分野の専門家の当たり障りのないコメントが繰り返され、スタジオの空気がそれを後押ししていました。
同じニュースが続くので、うんざりして私がチャンネルを変えようとすると、露骨に嫌がる両親。その瞬間、私は違和感とともにひとつの問いに行きつきました。
これは本当に“情報”なのかな? それとも“社会を乱す誰かを徹底的に叩いてスッキリする娯楽”なのかな?
私はコロナ禍のシンガポールで、政府による明確な情報統制と、それを信頼し協力する市民の姿を見てきました。 報道の自由はありませんが、政治への信頼があり、国民は首相や制度に“正義”を委ねて冷静に対処していました。コロナ禍の終息から程なく筆者はシンガポールを離れましたが、大きな混乱は最後まで発生しませんでした。
そして今、私はスイス・ジュネーブで国際関係論と政治学を学びながら、直接民主制という制度と、それを支える市民の意識に日々触れています。
スイスでは、政治学を学ぶ学生に限らず、政治や社会制度に対する議論がごく自然に会話に出てきます。 年齢や背景に関わらず、政治への関心が生活の中に根付いていることに驚かされます。
情報の透明性と議論の文化が、「正義は感情ではなく判断によって決めるもの」という土壌を支えているのでしょう。将来のキャリアをしっかり見据えた教育も、政治に自分が参加しているという自覚を促すのかもしれません。
では日本はどうでしょうか。
制度を信頼することもなく、かといって個々が考えて判断する習慣もなく、ただ“空気”が「その空気の合わせた正義」を作ってしまっているように思います。コロナ禍にシンガポールから見た日本は「カオス」そのものでした。
また報道される内容もかなり偏っていて、同じ話題をひたすら報道することが良くあるにも関わらず、ニューヨークタイムズやその他海外メディアでトップニュースになるような出来事があまり報道されないこともあります。何だか、非常に強い情報統制が敷かれている気分。
そのような環境で、私たちは今、本当に「自分の正義」で動いているのでしょうか?
もしかしたら、「自分の意見」というのは錯覚で、 実は“選ばされた怒り”に参加しているだけなのかもしれません。
本記事では、日本で覚えた違和感を切り口に、日本、シンガポール、スイスでの滞在経験を踏まえて「何が自分の”正義”を形作っているのか」について考えてみたいと思います。
第1章:正義という名の娯楽?──断罪が快感として消費される構造
「怒り」が情報の受け取り方を変えてしまう
社会問題を扱っているはずのニュース番組を見て、「情報を得た」という感覚よりも、「怒るべき相手がわかった」「すっきりした」という感情だけが残ることがあります。特に日本のワイドショーでは、事実の報道よりも、そこに添えられる感情的なコメントや演出の方が強く印象に残ることが多いです。
大げさなフリップめくりや多用される街頭インタビューなど、スタジオの雰囲気やVTRの編集の仕方までもが、視聴者の怒りや嫌悪感を引き出すよう設計されているように感じます。
視聴者は、自分が情報を「得ている」つもりでいながら、実は「感情を受け取っている」だけかもしれません。
情報の受け手としての立場から、いつの間にか“加害者を断罪する側”へと役割をすり替えられてしまう。その転換が無意識のうちに起こっていることに、私たちはどれだけ気づけているのでしょうか。
ワイドショーに流れる断罪の空気
常に“断罪の空気”が流れるワイドショーやSNS。登場人物の言動に対して「あれはおかしい」「許せない」といった言葉が繰り返され、見知らぬ誰かを裁くことは日常になっています。
報道というよりは、裁判劇を見せられているような感覚になることすらあります。
そこでは、自分と当事者の関係などは問題にならず、「言っていることが倫理的に正しいか」や「その人物が断罪されるべきか」が焦点になります。
また、ワイドショーでコメントを発するのは専門家ではなく、芸能人やお笑い芸人、タレントなど、“素人目線の代表者”であることが多いです。彼らの発言は、知識や分析に基づくものというよりも、視聴者の感情に寄り添い、怒りや共感を誘うもの。
たまに権威付けの肩書があったとしても、よくよく聞いてみると専門分野とは異なる話題にコメントをしている、ということもかなりの頻度で見かけますし、彼らの発言も客観的事実ではなく情緒に寄っていることが多いです。
これは情報提供ではなく、共感ベースの「感情の再確認」だとも言えるでしょう。
この空気の中では、「(例え知らない者に対してであっても)誰かに怒りをぶつけることは倫理的に間違っていない」という、いわば正義を振りかざすための「許可証」が視聴者に配られ、そしてその正義を“消費する”という行動が日常化していくのです。
見え隠れする“物語”としての正義
一時帰国中に体験した、実家のリビングでの“テレビとの距離感”──あの拒絶反応のような空気は、「情報」と「娯楽」が結びつき、「正義感」が快楽として消費される現象を象徴していたように思います。
繰り返される同じトピックであっても見てしまうのはつまり、「自分の正義が通用する様」を楽しんでいるから。「感情を共有する相手としてのコメンテーター」が違えば、視聴する動機は成立するのです。
このとき私が感じたのは、視聴者が「物語の登場人物」になっている感覚。事件の背景を知るよりも、「悪者」が明らかになり、「正義の声」が出揃い、「皆で怒る」流れのなかで、自分の立場が確認できることに安心している。これは報道ではなく、一種の物語消費──それも、“自分が登場人物になれる”没入型のエンタメに近い構造を持っているのではないか。
情報提供の場ではなく単なるエンタメだと考えれば、報道番組にはおおよそ似つかわしくないようなゲームやクイズが頻繁に挿入されるのにも説明がつきます。
自分の正義か、選ばされた正義か
このような感覚が広がることで、「その正義感は本当に自分のものか?」という問いが生まれてきました。
私たちは、ある意見に共感したとき、「自分の考えだ」と思いやすい。
けれど、その考えがどこから来たのか、自分で調べ、考え、判断した末に得たものなのか、それとも無意識に繰り返し見聞きして刷り込まれたものなのか、明確に区別するのは難しい…。
とくに、感情が先に立つようなテーマでは、冷静な分析よりも「共感できる声」や「自分の怒りに似た意見」の方が支持されやすいです。そしてその共感の連鎖が、“空気としての正義”を形成していく。そこに「これは本当に自分の正義なのか?」という問いを挟む余地は、だんだんと失われてしまう。
ましてその「正義」が相対的なもので「状況に応じて変化する」という立場に立てば、この問いはより一層複雑なものになります。誰がなぜそのような「正義」を作ったのか?誰が得をするのか?という第三者の存在を想定しなければならなくなるから。
正義という感情すら、選ばされたものであるかもしれない。少なくとも、その可能性について一度立ち止まって考える必要があると思います。
第2章:空気に溶ける報道──「社会」なきメディアの構造

自由のある社会で、自由の少ない報道
日本は先進国でありながら、報道の自由度ランキングでは常に低い位置に甘んじています。2024年の国境なき記者団(RSF)によるランキングでは、180か国中70位。これはいわゆる自由主義諸国とされる中では極めて低く、アジア圏内でも特に深刻な部類に属します。
ランキングが低い理由としては、政治的な圧力の存在や、忖度による自主規制の文化、記者クラブ制度による情報の囲い込みなど、構造的な問題が指摘されています。
しかし、日常的な視聴体験の中でその「不自由さ」を明確に感じることは少なく、それどころか、「情報はあふれている」とすら思える状況にあります。
問題は情報の量ではなく、多様性と構造。異なる視点、異なる解釈が並列的に扱われる機会は少なく、「共感されるかどうか」という基準で情報が選ばれているように感じられます。
視聴率が正義を決める?
日本のテレビ報道、とりわけ民放の報道番組は視聴率に大きく依存しています。公共放送と異なり、視聴率は広告収入と直結しており、「多くの人に見られる番組を作る」ことが命題。その結果、複雑な社会的課題を丁寧に解説するよりも、「感情的に共感しやすい出来事」や「悪者が明確な事件」が優先的に扱われる傾向が強まります。
たとえば、ある出来事が政治的・制度的な問題を孕んでいたとしても、視聴者がすぐに「共感できる誰か」と「非難されるべき誰か」を見つけやすい構図に変換される。それが「理解しやすさ」であり、「見る理由」にもなるから。
こうして、「社会にとっての重要性」よりも「視聴者にとっての受け入れやすさ」が情報の価値を決定するという、ある種の情報ポピュリズムが生まれているのです。
これのスタンスはテレビに「楽しさ」を求める(ていた)某テレビ局の経営陣とも重なります。
加えて、公共放送であるNHKへの不信感も、民放偏重の視聴傾向を強めている要因に。実際、受信料の徴収方法に対する疑問や、不透明な経営体制への批判は根強く、特に若年層やネット世代を中心に、NHKを敬遠する声が少なくありません。
その象徴が「NHKから国民を守る党(N党)」のような政党の存在であり、こうした風潮が結果的に「NHKより民放」の選好を後押しし、さらに民放の視聴率競争と感情優先の報道姿勢に拍車をかける構造になっています。
「社会」がなく「世間」がある国
このような情報の扱い方と深く関係しているのが、日本における「社会」の不在という文化的特徴。よく言われることですが、日本には「社会」という抽象的な公共概念が根付きにくく、代わりに「世間」という近接的・感情的な共同体意識が支配しています。
社会とは制度や構造、そして個々の立場の違いを前提にした冷静な議論を促す場であるのに対し、世間は空気と情緒に基づき、共同体の「調和」や「感情の一致」を重視します。
報道のあり方にはこの構図が色濃く反映されています。
日本のメディアが描くのは「社会の問題」ではなく、「世間の共感を損なう者の存在」になりがちで、制度改革や構造的課題といったテーマは取り上げられても、「感情を逆なでする存在」の断罪にすり替えられてしまうことが多いです。
この「世間の論理」は、日常生活の中にも浸透しています。
たとえば、公共の場で明らかに困っている人を見かけても周囲の人が見て見ぬふりをする場面。これは冷たさの表れというよりも、「関わったことで後に責められるのでは」「迷惑だと思われるのでは」「見捨てても誰かに冷たいと思われないから手助けしなくても大丈夫」という空気の読み合いの結果としての無関心だと捉えることができます。
本来であれば「制度的な安全」や「公共としての責任」が作用すべき場面で、空気と“世間の視線”が判断の軸になる。この感覚の延長線上に、“空気に沿う報道”と“感情優先の正義”があるのかもしれません。制度改革や構造的課題といったテーマは取り上げられても、「感情を逆なでする存在」の断罪にすり替えられてしまうことが多いです。
情報の多さと、語られなさ
1. なぜ重要な話題が語られないのか
ニュースが多くても「語られていないこと」が増えています。特に、近隣諸国の社会情勢や外交関係などは、実際の重要性に比して報道量が非常に少ないです。
特に韓国や中国、東南アジア諸国における制度改革、人権問題、経済動向といったテーマは、断片的かつ情緒的な文脈でしか紹介されないことが多く、隣国で起きている重要な変化が日本国内にほとんど届かないままになっています。さらに、それらの国が扱われる際は、「スキャンダルやセンセーショナルな話題」、「日本と比べて遅れていることを示す話題」、「彼らが日本で起こした不祥事」にスポットが当たることが多い傾向があります。
結果として国際ニュースはごく一部に限られ、社会構造の問題は表層的な解説のみにとどまり、制度改革の文脈が切り取られた状態で報じられる。
2. 日本と他国の報道姿勢の違い
また、人権問題や政治経済といった社会制度や公共性に深く関わるテーマは、日本では十分に報道されない傾向があります。
興味深いのは、報道の自由度ランキングで日本よりも下位にあるシンガポールの方が、こうしたテーマを重点的に報道しているという点。シンガポールでは政治や国際情勢、経済動向に関する情報が、社会の基盤を理解するうえで不可欠なものとして扱われており、近隣諸国との政治的結びつきが強いのが理由です。
視聴者もそれを前提としたメディアリテラシーを持っているように感じられます。
これらは欧米の報道では中心的なジャンルとされていますが、日本では視聴者の共感を得づらい、あるいは議論に慣れていないことが理由なのか、扱いが浅く、継続的なフォローも少ないのが現実。
なお、日本でもヨーロッパ諸国の政治経済について扱うことはありますが、日本の政治でも当然に同様の傾向が生まれていることについて言及することはほぼなく、政治制度を貫く問題よりもその国独自のファクターを強調する(=日本には関係ないというスタンス?)ことが多いです。
3. 感情優先のニュースが生む情報環境
一方で、芸能人の不倫、炎上、違反行為といった個人のスキャンダルは詳細に繰り返されます。こうした報道には「説明」ではなく「感情の導線」があり、視聴者の怒りや呆れがスムーズに引き出されるよう設計されている。といった個人のスキャンダルは詳細に繰り返される。こうした報道には「説明」ではなく「感情の導線」があり、視聴者の怒りや呆れがスムーズに引き出されるよう設計されています。
やり玉に挙がった芸能人は、たとえ刑法や民法で裁かれなくても、民衆にモラルを以て裁かれることを容認するしかありません。「社会」を形作る「法律」ではなく、「世間」を形作る「感情」を癒すことができない限り、彼らに居場所はどこにも存在しないのです。時効も治外法権も「世間」では適用されません。
日本における報道の問題は、「自由がない」ことではありません。むしろ「自由があるように見えて、空気に従って画一化している」ことにあります。視聴者の共感を軸に情報を構成するこの構造では、本質的な議論や対立が生まれにくく、最終的に「考える必要のないニュース」に変質してしまう危うさがあります。
次章では、この「空気と共感によって作られる正義」が、他国──特にシンガポールとスイスのような、報道や政治への信頼度が異なる国々と比べてどのような位置にあるのかを見ていきます。
第3章:比較で見える“正義”の在り方──シンガポールとスイスのケースから
正義を「預ける」社会:シンガポールの統制と信頼
筆者がコロナ禍の期間を過ごしたシンガポールでは、報道の自由は制度的に制限されており、メディアは政府寄りの立場を取ることが多いです。実際報道の自由度という意味では日本より圧倒的に下で、言論の自由も厳しく統制されています。
しかし、それにもかかわらず、市民の多くは政府や政治家に対して強い信頼を寄せており、報道内容を“信用できる情報”として受け止める傾向があります。
コロナ禍の際にも、情報は政府を通じて整理され、国民はその情報に基づいて冷静に行動していました。マスクの配布やワクチン接種スケジュールなども円滑に進み、混乱や誤情報の蔓延は最小限に抑えられていた印象があります。状況に応じて毎日のようにルールが変わっていましたが、国民は皆情報をキャッチアップして適応していましたし、デジタルツールの扱えない国民に対する支援も充実していました。
制度に対する信頼が市民の行動を支えており、正義や対処の判断を「政府に委ねる」社会的な構造が成立していたように感じます。
正義を「考える」社会:スイスの直接民主制と熟議の文化(ジュネーブの視点から)
一方で、現在筆者が滞在しているスイスでは、政治に対する関心の高さが随所に感じられます。
特にジュネーブのような都市部や高等教育機関では、若者を含む多くの人々が政策や制度について日常的に議論する姿勢を持っており、これはスイスが直接民主制を基盤としていることと無関係ではないように思います。
また、ジュネーブでは国連欧州本部をはじめとする国際機関が多数集まっていることから、日常的に国際政治や社会課題に関するデモ活動やアクションが展開されています。こうした環境が、政治について語ったり、調べたりすることへの心理的なハードルを下げ、自然に政治を“生活の一部”として捉える土壌をつくっているのかもしれません。
スイス全体として同様の傾向があるかは一概には言えませんが、少なくとも筆者が経験しているジュネーブという地域では、政治や制度について“考えること”がごく自然な行為として根付いているように感じられます。
こうした姿勢の背景には、初等・中等教育段階から「社会や制度を理解し、関わる」ことが当たり前として組み込まれている教育のあり方も影響しているのかもしれません。スイスの若者は制度の仕組みに触れ、自分の判断が社会にどのように影響を与えるかを、早い段階から意識する機会を持っているように見受けられます。
スイスでは報道もまた、多様な立場から構造的な問題を扱うことが一般的であり、感情に訴えるというよりも、判断のための情報提供が主眼となっています。制度の是非、政治家の説明責任、地域格差や社会保障の課題などが、国民の“自分ごと”として取り上げられやすい土壌があります。
正義は政府や空気から与えられるものではなく、各人が「考え、判断し、議論する」プロセスを通じて醸成されるべきだという前提が、この社会には深く根付いているように感じます。
正義が「宙づり」になる社会:日本の制度不信と空気の支配
日本では、政府や制度に対する信頼が低く、かといって市民が自ら考え、判断して正義を形作る文化が強いとは言えません。結果として、「誰かに委ねる」でもなく、「自分で考える」でもない、どこにも預け先のない“宙づりの正義”が社会に漂っているように感じられます。
国家でもなく、宗教でもなく、自分自身(の主観)に正義の拠り所を探る…という発想は、現代社会に蔓延する「自己責任論」の裏返しのように思えます。
そして、その代わりに強く働いているのが、「空気」や「同調圧力」。
報道もまた、それに応じた形で構成される傾向があり、制度や構造よりも個人への断罪、共感を呼ぶ物語が前面に出るようになっています。この構造の中で、視聴者は制度や政策の正当性を論理的に吟味するよりも、「叩くべき対象を提示され、共感の連帯に参加する」という形での“正義”に参加することが一般的になっているのかもしれません。
背景には、学校教育や社会的なキャリア形成の過程で、「自分の頭で考えて判断する」訓練が十分になされてこなかったことも影響しているのではないでしょうか。空気を読むこと、場の雰囲気を乱さないこと、指示されたルートを外れないこと──そうした要請が、制度の中に織り込まれているように感じます。
第4章:考える力が育ちにくい構造──教育とキャリアの視点から
「自分の頭で考えて行動する力が足りない」と語られることが多い日本社会ですが、それは本当に個々人の責任なのでしょうか。第3章では、報道の構造や空気に左右される正義感について述べてきましたが、本章ではさらにその背景にある教育とキャリアの構造に目を向けてみたいと思います。
学校教育:社会と切り離された「正解主義」
日本では、子どもが制度や社会に触れる最初の段階である学校教育において、正解を当てることや空気を読むことが重視されがちです。試験に出るかどうか、評価されるかどうかといった視点で知識が選別され、「なぜそうなるのか」「どう考えるのか」といった問いは置き去りにされることも少なくありません。
たとえば、政治教育では具体的な政党名や時事問題に触れることを避ける傾向があり、現実の社会との接点が薄いまま形式的な制度だけを学ぶ構造になっています。その結果、社会で起きていることを“自分ごと”としてとらえる視点が育ちにくくなっています。
また、批判的思考を養うための「正解のない問題」に取り組む機会は限られており、ロジカルシンキングについても“構造を教える”ことに留まり、実際に議論したり多角的に考えたりするトレーニングの場は極めて少ないのが現状です。さらに、すべての教科を平等に伸ばすことが優先され、個々人の興味や関心を深く掘り下げる機会が限られている点も見逃せません。これは、学びの出発点が「自分の問い」ではなく、「社会から与えられた問い」に固定されている構造とも言えます。
キャリア形成:思考よりも順応が求められる環境
その傾向はキャリア形成の段階でも続きます。新卒一括採用という仕組みの中で、学生は“個性”や“考え”ではなく、いかに「無難な人材」であるかを競わされます。自己表現や問題提起よりも、協調性や指示への順応が重視される風潮が根強く、社会に出る前から「考えること」を抑制されてしまうのです。
職場においても、各人のスキルや専門性よりも人間関係への適応や“空気を読む力”が評価されやすい構造となっており、論理的に物事を批判的に考えることがむしろ“扱いにくさ”としてネガティブに捉えられることがあります。
このような環境の中で育ってきた人々が、社会問題に直面したときに“自分の正義”を確立できず、他人の反応や空気の動向に頼ってしまうのは、ある意味で当然の帰結かもしれません。教育やキャリア形成の場で「考える訓練」が繰り返し欠落していることが、社会全体としての思考力の土台を弱めているのです。
本章では、こうした教育やキャリアの構造的問題に焦点を当て、日本における“考える力”の不在がいかにして生まれ、定着していったのかをひも解いていきます。
情報と言語の壁:視野の狭さを強化する構造
また、日本語という言語自体が社会的階層や年齢差を明確に反映する敬語体系を備えており、これも批判的思考や対話の自由を制限する一因となっている可能性があります。年上や上位者に対して敬語を用いる文化は、思考を整理して率直に表現する訓練を阻害し、対等な議論や意見のぶつかり合いを避ける傾向を生みやすくします。
教育やキャリア形成の構造に加えて、考える力の育成を妨げているもうひとつの要因が存在します。それが、語学力の問題です。多くの日本人が日本語以外の言語で情報を収集する機会を持たず、結果として国内メディアによってフィルタリングされた情報に依存することになります。
これは日本に限らず多くの国に当てはまる現象ですが、多くの国では英語などの国際言語によってある程度の情報アクセスが確保されていたり、移民や多言語環境の中で自然と異なる価値観に触れる機会が多いという背景があります。対して日本の場合は、英語教育が形式的になりがちで、実際に他言語で情報を取得・分析するトレーニングがほとんど行われていない点が特徴的です。そのため、世界で何が起きているのか、他国ではどのように制度が設計されているのかといった視点に触れる機会が極端に限られてしまいます。
この情報アクセスの偏りは、思考の材料そのものを制限してしまい、結果的に“考える力”や“視野の広さ”を培う機会を奪っているのです。情報に触れる言語の幅が狭ければ、当然ながら認識の幅も限定されてしまう。それが構造的に当たり前となっている状況は、思考の自律性という観点からも看過できない問題だといえるでしょう。
第5章:空気に従う“正義”──考えない社会の現象としての炎上と断罪

第4章では、「考える力が育ちにくい構造」として、教育・キャリア・言語環境に着目しました。自分の問いを持つこと、他者と異なる意見を持つこと、複数の視点から物事を見ること──そうした思考の土壌が弱いまま育ってしまう社会構造が、現代日本には存在しています。
本章では、それによって生まれた社会的な“表出”を見ていきます。具体的には、空気に流されるようにして強まる「正義感」、SNSやメディアに現れる断罪文化、そして“考えない正義”が拡散・増幅される構造について考察します。
思考の空白がもたらす空気的正義
自分の問いを持たないまま育ったとき、人はどのように“正義”を構築するのでしょうか。そこでしばしば登場するのが、「空気」や「共感」から生まれる正義です。
自分で問いを立て、自分で情報を集め、論理を組み立てるプロセスが欠如しているとき、人は他人の感情に追従することで「正しさ」を確認しようとします。誰かが怒っていれば、そこに共感し、怒る。「正義」は個人の内面ではなく、他者の空気に触発されて生まれるのです。
このような“空気的正義”は、感情的には強く訴える力を持つ一方で、事実や背景を深く掘り下げる思考とは相性が悪く、しばしば誤解や偏見に基づいた行動を誘発します。
これらは前例主義であったり、エビデンスや専門性の軽視といった事象とも結びついています。
空気が生む「叩いていい対象」
SNSやニュース番組でたびたび見られるのが、「叩いてもよい」と認定された人物に対する集団的な非難です。ここで重要なのは、「誰が叩かれるか」は多くの場合、事実や法的基準ではなく、“空気”によって決まるということです。
炎上のターゲットとなるのは、失言や軽率な行動をした人だけとは限りません。謝罪の仕方が気に入らない、有名である、擁護した人が不快だった──そうした理由で「叩くことが許される空気」が形成されると、以後はその人が何をしても許されないという“物語”が一人歩きするのです。
ここには、報道が感情を引き出す構造になっていることや、視聴率やクリック数を重視するメディア構造の影響も見逃せません。共感や怒りといった感情を前提に構成された情報環境は、空気に乗った「叩き」や「断罪」を増幅させる土壌となっています。
現代ではここに冒頭にも挙げたSNSやインターネットによる「エコーチェンバー現象」が加わり、自分と異なる意見はますます視界に入らなくなっていきますし、もし異なる意見を目にしても、認知が歪んでいるためまともに捉えることができません。
考えることは裏切りと見なされる
空気に基づく“正義”が支配的な環境では、その空気に疑問を呈したり、異なる意見を出したりすること自体が“裏切り”として扱われることがあります。
たとえば、炎上した対象について「背景を調べてみた」「少し違う視点で考えたい」と発言するだけで、「擁護するのか」「敵の味方か」といった攻撃が飛んでくる──こうした現象は、すでに多くの人が経験しているのではないでしょうか。
第4章で見たように、日本の教育や職場文化では、異なる意見を言うことそのものが歓迎されづらく、上下関係や空気を読む力が重視されます。そうした社会で育った人々が、「空気と違う意見=迷惑・不適応」と感じることには、ある種の合理性さえあるのです。「迷惑をかけないこと」を最優先するように教えられる日本社会では、場にそぐわないことは内容のいかんを問わず「悪」というレッテルを張られることになります。
こうして、「考える」ことが抑制され、「空気に従う」ことが正義として振る舞うようになる構造は、私たちが生きる情報空間や人間関係の中で、ごく自然に形成されていると言えるでしょう。
「日本すごい」に包まれた情報空間
こうした情報環境をさらに特徴づけるのが、日本のテレビやネットメディアに多く見られる「日本礼賛コンテンツ」の氾濫です。「外国人が驚いた日本の〇〇」「世界が認めた日本の技術」といった番組や記事は、事実の深掘りや相対的評価よりも、「気持ちのよい物語」を届けることに主眼が置かれています。
本来、他国との比較や国際的な評価は、文化、政治体制、歴史、そしてそれらを裏付けるデータといった文脈を踏まえて扱うべきですが、礼賛型のコンテンツはそうした議論を避け、一面的な称賛を繰り返す傾向があります。そこには、日本社会の「異なる視点」への弱さと、「耳障りの良い情報」への依存が透けて見えます。
多面的な視点を取り上げるコンテンツには十分な検証体制、時間、労力といったコストがかかるのに対し、「耳触りの良い情報」はそこまでの検証が必要ではなく、多少間違いや偏った思想が含まれていても視聴者は心地よい情報に対して批判はしないため、結果としてコスト面でも優れたコンテンツとして成立するという側面もあるでしょう。
このようなメディア環境では、自国に対する素朴な疑問や課題提起すら「不快」や「反日」とみなされかねず、空気に従う姿勢がより強化されます。批判的視点を排し、「正しい物語」だけが繰り返される構造は、耳触りの良い情報だけを視聴者に摂取させることで、まさに無意識な“考えない正義”が再生産される温床となっているのです。
この論調として特徴的なのが、特に海外と対比して批判を行う人物に対して、「不満があるなら日本から出ていけ」や「日本に住んでいない人間には批判する資格がない」という言葉を浴びせる、というもの。個人から事象を切り離して本質を捉えようとする批判的思考と、本人とその問題の距離の近さ(=発言者が世間の一部でない限り発言権がないという発想)の議論の取り違えと、「そんなことは聞きたくない」という抵抗感が見て取れます。
次章では、このような社会の中で、自分の思考を取り戻すにはどうすればよいのか、自分自身の正義感をどう育て直すのかという視点から、議論を展開していきます。
第6章:自分の正義を育てる──空気に流されないための視点と思考
ここまで見てきたように、現代の日本社会では「空気」や「共感」に従うことで形づくられる“正義”が力を持ちやすく、それに異を唱えることは難しくなっています。しかし、そうした環境の中でもなお、自分の考えを持ち、問いを立て、自らの価値観に基づいて判断する力は育てうるものです。
本章では、自分の正義や思考をどう育て直すのか、どのように「空気の外側」から社会を見直すことができるのかを、複数の視点から考えていきます。
問いを持つということ
「正しさ」は与えられるものではなく、問い続ける中で自ら育てていくものです。学校や職場など、あらゆる場面で“正解”が重視され、自分で問いを立てる機会が少なかった環境では、そもそも「問う」という行為に慣れていない人が多いかもしれません。
「問う」ことを試みたものの、酷い目にあって心が折れてしまった、という人もいるでしょう。
しかし、違和感や疑問を覚えたとき、それをスルーせず、立ち止まって考えてみることが、やはり思考の出発点となります。「なぜこの情報ばかりが目につくのか」「なぜ誰も異を唱えないのか」「この情報はそもそも本当なのか」──そのような問いが、“空気”ではなく“思考”に基づく判断を可能にします。
詳細に分析しなくても、これまでに自分が得た情報と照らし合わせてみたり、一次情報へのアクセスを考えてみるだけでも、新たな視点でものを捉える力を養うことができます。
また、世の中の全ての情報には、発信者の意図やその情報が拡散する背景があります。もちろん純粋な良心から情報提供を行う場合もありますが、そのような情報はあまり拡散されなかったり、その情報が処理過程で歪められる可能性があるということも認識しておく必要があるでしょう。
このように、「この情報は真実なのか」という問いに合わせて、「この情報が広まることによって得をするのは誰か」「なぜその情報が自分にもたらされたのか」という観点を持っておくと、いわゆる詐欺にも引っかかりづらくなるかもしれません。
構造を捉える視点を持つ
社会をより大きな構造として捉える視点もまた、空気に流されない判断を支える力となります。たとえば「日本の技術はすごい」という言説自体は事実であり、称賛に値する側面もありますが、それが社会全体の生産性や雇用のあり方にどうつながっているのかといった“構造の文脈”が抜け落ちているケースが少なくありません。
例えば、中小企業の高度なものづくりの技術は、日本の誇りである一方で、それに依存しすぎた結果として産業構造の転換が遅れ、就職氷河期をはじめとする世代的な痛みや歪みを生んだ側面もあるのです。
私たちは、価値あるものを称える一方で、その情報をただ消費するのではなく、どう活かすか・どう守るか・どう広げるかという「構造的な問い」を持つ必要があります。
社会を“断片”ではなく“仕組み”として捉える視点が、偏りのない判断を支える基盤となるのです。
空気の外に立つ技術
最後に、自分の思考を育てるためには、“空気の外に立つ技術”が必要です。たとえば、違和感をきちんと自分の言葉で言語化する力、立場や背景の異なる人と対話する力、そして自分のフィルターを疑う力などが挙げられます。
また、海外のメディアや異なる文化的背景に触れることは、「当たり前」の枠を一度壊す貴重な経験になります。異なる価値観の中で自分の立ち位置を確認することは、空気に染まりきらない“視点の獲得”につながります。
そのためには、自分から情報を取りに行く努力をしたり、耳の痛い情報にもある程度積極的に触れていく必要があります。
空気に流されることを完全に避けることは難しいとしても、それに抗うための「視点」「問い」「言語」を持ち、自分の選択に自覚的になることはできます。自分の中に判断軸を持ち、他者の思考を尊重し、そして社会の構造を読み解くまなざしを持つこと。そうした一人ひとりの思考の積み重ねが、空気に流されない社会を形づくる礎となるのではないでしょうか。
あとがき:まとめに代えて
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
本稿は、一時帰国中に目の当たりにしたメディアや空気感の変化から生まれた個人的な問題意識を出発点にしています。当初は違和感や戸惑いから始まりましたが、調べ、書き、掘り下げる中で、それらの現象が偶然ではなく構造的な背景を持っていること、そしてそれに対して自分の思考や態度で向き合う余地があることに気づかされました。

大学院留学で培った視点も、無意識ではありますが、影響していたかもしれませんね。
この記事を通じて、日本社会や情報環境に対する一方的な批判を展開したかったわけではありません。むしろ、「自分はどう受け取り、どう感じ、どう反応したか」という一個人としての視点を、読者の方にも問い直してもらえるような素材として差し出したつもりです。
その意味で、この文章は「日本論だけれど個人としてもできることがある」というスタンスです。
社会は常に変化し、空気は目に見えないからこそ強く人に作用します。だからこそ、自分自身の問いを持ち、自分の立ち位置から考えることが、どんな時代においても重要なのだと思います。
この文章が、どこかで読んでくださった方の思考の一助となれば、これほど嬉しいことはありません。
以上です。
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