これまで何度も訪れた、大好きな街・香港。観光名所だけでなく街の雰囲気や生活の気配に触れる旅が好きで、いつも街を歩きながら空気や会話のトーンを感じてきました。
一方音楽を通して香港を知る機会も増え、特に陳奕迅(Eason Chan)の楽曲は、広東語ポップスの中でも社会や感情の移り変わりを強く映し出していると感じています。
今回はそうした香港のムードや時代の空気感、いわゆる「香港の空気」を感じられる作品を9曲をセレクトしました。
なかには有名俳優や歌手の死などその時々の香港社会を映し出す背景が込められているものもあり、曲を貫く雰囲気や歌詞に注目することで、単純なエンタメに留まらない深い魅力を味わうことができるはずです。
本記事では、単なるヒット曲ではなく香港という都市の一面を切り取ったような楽曲を、旅人として、また広東語ポップスのリスナーとしての視点からご紹介します。
陀飛輪(2010年)
- 発表年:2010年
- 作詞:黃偉文(Wyman Wong)
- 作曲:Vincent Chow
- 編曲:Gary Tong
- 収録アルバム:Time Flies(2010年)
曲のテーマと背景
高級腕時計の機構「トゥールビヨン(陀飛輪)」は本来時の狂いを抑えるための装置。この曲ではその精密さが逆に、狂うことすら許されない現代人の生き方を象徴しています。
「ブランドは選び放題。でも、私の視野は狭い」(品牌任我揀 但我目光如豆)というラインから始まるこの楽曲は、物質的に満たされたはずの生活のなかで、それでも何かが足りないという“空虚さ”を描きます。
「十年かけて手にした“金”は、本当にそれに見合うものだったのか?」(你獻出了十吋時和分 可有換到十吋金)…名声やステータスを得ても、心が満たされるとは限らない。そうした問いかけが淡々とした口調のなかに強く込められています。
この曲が発表された2010年、香港では急速な経済発展の反動として格差拡大や「勝ち組信仰」が社会に浸透していました。高級ブランドを身にまとい外からは成功者に見える人々が、実は心の中で空虚さや焦りを抱えていた…。「陀飛輪」は、そんな都市のリアルを描いた作品です。
さらにこの曲は「ワイン」「車」「カメラ」「時計」をテーマにした「男性の四大嗜好シリーズ」の完結編。
ブランド品や趣味に時間とお金を注ぎながらも、それが本当に自分の価値を高めているのかどうか、ふと立ち止まってしまうような感覚を鋭く描き出しています。
MVの内容
ミュージックビデオでは、スーツ姿の陳奕迅が、ぬいぐるみのウサギや宇宙飛行士、ピエロと共に登場します。
舞台はまるで子ども部屋のような空間。けれど彼は大人の姿のまま、どこか所在なげに立ち尽くしているのです。
現実世界では社会的な成功者として認められている彼が、過去の純粋な夢や幻想のなかに戻ろうとしても、もう完全には戻れない。MVの演出は、時間の不可逆性と、子ども時代との断絶を静かに描き出します。
冒頭に表示されるテキストも印象的です。
「子どもの一日はすぐに過ぎる。でも一年はとても長い」(孩子的一天很快過,一年卻很漫長)
「大人の一日は長く、一年はあっという間に過ぎていく」(成人的一天很漫長,一年卻轉眼過去)
まさに“時間”と“生き方”に向き合うこの楽曲の核心を、映像でも表現しています。
葡萄成熟時(2005年)
- 発表年:2005年
- 作詞:黃偉文(Wyman Wong)
- 作曲:Vincent Chow / Anfernee Cheung
- 編曲:C.Y. Kong
- 収録アルバム:U87(2005年)
「葡萄成熟時」はその名の通り、果実がゆっくりと熟していくように、人の気持ちや人生が静かに変わっていく様子を描いた一曲です。恋愛がテーマの曲ではありますが、人生の過程を描いた曲として解釈することもできる点がこの楽曲の深さ。
「出発のときはいつも、すぐにゴールを見つけたがっていた」(出發時總想 即刻找到終點)と歌われるように、かつては結果や正解を急ぎがちだった自分。だけど、時間が経つにつれて変わっていく感情があります。
「ぶどうは熟すときに涙を落とす」(葡萄會在成熟時滴下眼淚)というフレーズが象徴するのは、成長や変化に伴う痛みと、美しさの同居。人生において「待つ」ことや「熟す」ことの意味を、穏やかな語り口でそっと提示してくれます。
アルバム『U87』自体が香港ポップスの名盤として知られており、その中でも「葡萄成熟時」は「時間と感情」をテーマにした詩的な代表曲として今も愛され続けています。
夕陽無限好(2005年)
- 発表年:2005年
- 作詞:林夕(Lin Xi)
- 作曲・編曲:郭偉亮(Eric Kwok)
- 収録アルバム:U87(2005年)
- 受賞歴:2005年 TVB8金曲榜「全球觀眾最愛粵語歌曲」、2005年 新城勁爆頒獎禮「勁爆年度歌曲」、2006年 叱咤樂壇流行榜「十大歌曲」「我最喜愛的歌曲」、2006年 十大中文金曲頒獎音樂會「全球華人至尊金曲獎」
「夕陽無限好」は人生の儚さと美しさを描いたバラード。タイトルは中国の詩人李商隠の詩「登楽遊原」に由来し、「夕陽は美しいが、黄昏に近づいている」という意味を持ちます。
歌詞ではこの主題が繰り返され、人生の最も輝かしい瞬間が終わりに近づいていることへの哀愁が表現されています。
作詞の林夕は人生の無常や愛の儚さをテーマに多くの名曲を手がけており、本作でもその哲学が色濃く反映されています。また、作曲・編曲を担当した郭偉亮は香港ポップス界で数多くのヒット曲を生み出しており、本作でもその才能が発揮されています。
この曲は、2005年にリリースされたアルバム「U87」に収録されており、同アルバムは陳奕迅のキャリアにおいて重要な作品とされています。
最佳損友(2006年)
- 発表年:2006年
- 作詞:黃偉文(Wyman Wong)
- 作曲・編曲:Eric Kwok(郭偉亮)
- 収録アルバム:Life Continues…(2006年)
- 受賞歴:2006年度 新城勁爆頒獎禮-新城勁爆歌曲、2006年度 十大勁歌金曲頒獎禮-十大勁歌金曲、第29屆 十大中文金曲頒獎禮-十大中文金曲、2006年 CASH金帆音樂獎-最佳男歌手演繹獎(流行音樂)
「最佳損友」は壊れてしまった友情に向き合う一曲です。「損友」とは、ただの「悪友」ではありません。かつて何もかもを共有し人生の深いところまで踏み込んだ親友同士が、もう二度と交わらないときに使われるような苦くも特別な言葉です。
「友よ、私はあなたを一瞬の友として、そして一生の友として思っていた」(朋友 我當你一秒朋友/朋友 我當你一世朋友)という出だしから、この曲の感情の深さは圧倒的です。
楽しい記憶も確かにあった。でも、「別れた後は、それぞれが別の道を歩むしかない」(早知解散後 各自有際遇作導遊)「だけど君のように、僕の涙を背中で受け止めてくれた人はいない」(卻沒人像你 讓我眼淚背著流)というラインには、決して「恨み」では説明できない、喪失の哀しみがにじみます。
この曲は、再会の希望すら口にできない関係になってしまったふたりの過去を、まるで恋人と別れたような重さで語ります。
單車(2001年)
- 発表年:2001年
- 作詞:黃偉文(Wyman Wong)
- 作曲:柳重言(Yau Chung Yim)
- 編曲:陳輝陽(Chan Fai Yeung)
- 収録アルバム:Shall We Dance? Shall We Talk!(2001年)
- 受賞歴:2001年度 十大中文金曲賞
「單車」は、成長の過程で徐々に変化していく親子関係、とりわけ父と息子の関係に光を当てた珠玉のバラードです。
香港でも多くの人が共感するこの曲は、家庭の中で語られにくい感情や、世代間の距離感を静かに掘り下げています。
「あなたは僕の自転車を押してくれた。僕は、あなたの背中を見ていた」(你推著我的單車/我看著你的背影)
という冒頭のラインには、幼い頃の温かな記憶が詰まっています。しかし物語は、そこから一転、次第に疎遠になっていく父子の関係と、大人になった今だからこそ理解できる「あの頃の気持ち」が描かれていきます。
「今、僕は誰かの自転車を押している」(現在我推著別人的單車)この一行で、主人公はかつての父親の立場に立ち、ようやくその無言の愛に気づくのです。
1990年代から2000年代初頭の香港は、急速な都市化と社会変化の中で、伝統的な家族観が揺らぎ始めた時代。「單車」は、そんな社会の中で父性というテーマに静かに向き合った稀有な一曲と言えるでしょう。
裙下之臣(2006年)
- 発表年:2006年
- 作詞:黃偉文(Wyman Wong)
- 作曲・編曲:Alex San(辛偉力)
- 収録アルバム:What’s Going On…?(2006年)
- 受賞歴:2006年度勁歌金曲優秀選-第三回金曲、新城勁爆頒獎禮-新城勁爆歌曲賞
「裙下之臣」は、恋愛関係における支配と被支配の力関係を、ユーモラスかつ皮肉を込めて描いた楽曲です。タイトルの「裙下之臣」は直訳すると「スカートの下の臣下」、つまり女性の支配下にある男性を指す表現で、恋愛における主従関係を象徴しています。
黃偉文の歌詞は、恋愛における男性の従属的な立場を風刺的かつ軽妙なタッチで描いており、香港社会におけるジェンダーの役割や恋愛観に一石を投じる作品となっています。
任我行(2013年)
- 発表年:2013年
- 作詞:林夕(Lin Xi)
- 作曲:澤日生(Christopher Chak)
- 編曲:唐奕聰(Gary Tong)
- 収録アルバム:The Key(2013年)
- 受賞歴:2013年度叱咤樂壇流行榜頒獎典禮-至尊歌曲大獎、我最喜愛的歌曲大獎、CASH金帆音樂獎-最佳歌曲大獎、最佳旋律賞、最佳男歌手演繹賞
曲のテーマと背景
「任我行」は、香港の音楽界を代表する作詞家・林夕が手がけた、自由と孤独の狭間を描いた哲学的な楽曲です。タイトルは金庸の武侠小説『笑傲江湖』に登場するキャラクター「任我行」から取られており、「自分の道を行く」という強い意志が込められています。

『笑傲江湖』を含む武侠小説はこちらの記事で取り上げています。任我行は確かに自分の欲望に非常に忠実なキャラクターですね。
歌詞は、無邪気な子ども時代の自由な冒険(熱帯魚を海に放して死なせてしまう話や、真夜中の登山)から始まり、大人になるにつれて「群れから離れないこと」や「仲間なしではやっていけない」といった社会的な現実に直面していく様子が描かれます。
「いつから群れを離れないように学んだのだろう?」
「一匹の蝶が桃源郷に閉じ込められたとして、誰が気にするだろう?」
このようなフレーズが問いかけるのは、現代社会における“個”の選択。夢を追いかけようとすれば「変わり者」、周囲に合わせれば「羊の群れ」と呼ばれかねない。そんな矛盾の中で「自分らしく生きる」とはどういうことかを、鋭く、しかし優しく問いかけてきます。
そしてラストには、「結局、自分の意志で歩いているつもりでも、気づけば大勢の流れに身を任せているのではないか」という問いに至ります。大人になるとは、どこまで自由を諦めることなのか…。
それでも、「自由になりたい」と願い続ける人すべてに、この歌は静かに寄り添ってくれます。
MVの内容
MVでは、陳奕迅が自然の風景の中を一人歩く姿が描かれ、自由と孤独の対比が映像で静かに表現されています。
シンプルながらも深いメッセージ性を持つ映像は、楽曲のテーマを強く印象づけます。
黑擇明(2006年)
- 発表年:2006年
- 作詞:林夕(Lin Xi)
- 作曲・編曲:C.Y. Kong(江志仁)
- 収録アルバム:What’s Going On…?(2006年)
- 受賞歴:2007年度YAHOO!搜尋人氣大獎-Yahoo!Music十大人氣歌曲
「黑擇明」は、現代社会における個人の葛藤や抑圧、そしてそれに立ち向かう姿勢を描いた楽曲です。歌詞では暗闇の中で光を選び、最も暗い映画館で光を灯そうとする人物が登場します。これは、困難な状況下でも希望を見出そうとする人々の姿を象徴しています。



有名な映画監督である黒澤明氏を彷彿とさせるタイトルと場面設定(映画館)ですが、直接的な関連性は明言されていません。
この曲は陳奕迅の楽曲の中でも特に深いメッセージ性を持つ作品であり、リスナーに対して生きることの意味や希望を問いかけています。作詞家・林夕の哲学的な歌詞と、C.Y. Kongの重厚なサウンドが融合し、聴く者の心に深く響く楽曲となっています。作詞家の林夕は張國榮の死に深い影響を受け、この曲を書いたと述べています。
浮誇(2005年)
- 発表年:2005年
- 作詞:黃偉文(Wyman Wong)
- 作曲・編曲:江志仁(Jerald Chan)
- 収録アルバム:U87(2005年)
- 受賞歴:2005年度叱咤樂壇流行榜頒獎典禮-至尊歌曲大獎、十大中文金曲頒獎禮-十大中文金曲賞
「浮誇」は、注目されたいという欲求が過剰になり、自己表現が極端になる現代人の心理を風刺的に描いた楽曲です。歌詞では、無視されることへの不安や、注目を集めるために過激な行動を取る人物の姿が描かれています。このようなテーマは、SNS時代の「承認欲求」や「自己表現」の問題とも重なり、多くの共感を呼んでいます。
また、一部の解釈では、この楽曲が香港の著名な歌手・梅艷芳(Anita Mui)へのオマージュであるとも言われています。歌詞中の「多經典的歌后,一剎眼已走」(多くのクラシックな歌姫が、一瞬で去ってしまった)というフレーズが、彼女の早すぎる死を悼んでいると解釈されています。
まとめ
陳奕迅の楽曲は、ただのラブソングやヒット曲にとどまりません。社会の変化や人々の感情を丁寧にすくい取り、都市・香港の記憶を音楽として記録しています。
今回紹介した9曲は、香港の街を歩いたときに感じた空気、ニュースや出来事から伝わってきた世相…そうした体感と静かに重なるような作品ばかりです。
旅行で訪れたときの風景と音楽で感じる香港の姿がつながることで、この都市への理解が少しだけ深まったように思います。
これから香港を訪れる方も、広東語ポップスに興味がある方も、ぜひ曲の背景や歌詞に耳を傾けながら、自分なりの「香港」を見つけてみてください。
陳奕迅を初めて聴く方にはこちらの記事もおすすめです。


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