【レールを外れたら人生終了】日本ではやり直しがきかない(と言われる)のはなぜ?理由を考察した

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最近色々な国で色々な人々と話をして、まだ自分の知らない人生の可能性があることが分かりました。

特に気になったのが、他国で働いている人(外国人・日本人を問わず)は、日本企業で働く日本人よりも短い時間働き、家族との時間をしっかり取ったり、長期休暇を取ってリラックスする時間を取ったりしていて、しかも給与も身を粉にして働く日本より(時に圧倒的に)高い、ということ。

そして、働き方そのものもかなり柔軟。公務員でも自分のブランドを持っていたり、副業をしていたり、常に新しいビジネスプランについて考えていたり…とキャリアを自分で選んでおり、心に余裕があり人生が非常に充実している印象を受けました。

一方で、日本で働くことは何だか窮屈。生き方やキャリアを自分で選ぶことを半ば放棄しながら(諦めながら?)日々を過ごしている人を見ることが多いように感じます。そしてよく言われるのが「レールを外れたら終わり」ということ。

この記事では、なぜそのような恐怖感を抱いてしまうのか?いったんレールを外れてしまうとなぜ戻ることが難しいのか?について考えたいと思います。

目次

「正解」以外は全て「誤り」という二元論的思考

日本の教育で養われる正解思考

日本の教育では、基本的に思考力を向上させるよりも知識を身につけて唯一の正解にたどり着くための方法を学びます。

学校では高評価を得るためには学んだ内容をそのまま再現するだけで良く、異なる道筋で導き出した答えや学習内容から外れている答えはたとえ正解であっても評価されず、状況によっては罰せられる(減点されたり恥をかかされたりといった経験をする)ことになります。

また学校や企業は大抵何かしらの形でランキング付けがされており、基本的にそのランク高ければ高いほど社会的信用やステータスが高く、そういった肩書を持つ個人は能力も高いだろうという推測が働くという図式が完成しています。

つまり、その中で高い場所を目指すのが「正解」になりますし、実際その正解にたどり着ければある程度の人生が約束されるという側面もありました。

これらのシステムがいわゆる正解=合理的選択として機能し、社会的なレールを形作りました。(良い学校から良い企業への流れ)

さらに近年ではSNSによって関係のない他人の言動を目にすることも多くなり、容姿や生活様式といった個人的な事柄について「あり」「なし」といったジャッジをすることも当たり前になってきました。そこには必ず「社会的なあるべき姿」「社会的な正義」が存在しています。

それらの指標が普遍的な正しさを持つわけではないですし、大抵の場合は個人の自由が認められる範疇であることが明確に分かります(法令で罰せられない限り犯罪ではない)が、何をするにしても「自分で考えた正解」ではなく「社会が決めた正解」があり、それに従うことが厳格に求められる社会で生きていると、だんだん「誰もが認める普遍的な正解」を求めるようになってきます。

徹底した横並び・平等主義思考

社会が上記のような「正解」を用意しているのは、ひとえに「格差の発生を防ぐ」ということが第一に挙げられると思います。

あらかじめ用意された「正解」以外の回答が認められないため、得られる結果は「できたか」「できなかったか」の二種類だけ。みんなが「ある程度できる」=「平均的」が最も望ましい状態ということになります。その中では「できる=すごい」、という図式よりも「できない=劣っている」、という図式がフォーカスされがち。

日本社会では「年齢」が重要な要素なので、「劣っている」ことが明らかになるような「原級留置」はほぼゼロ。習熟度に関係なく学年は上がっていきますし、ほぼ同じ年齢で就職活動を行い就職します。そして年功序列が色濃い伝統的企業(いわゆるJTC)では、年を経るごとに黙っていても昇給していきます。

これが能力もライフステージもはたまた考え方も基本的に一緒という同質性の高い集団を生み出し、その集団における強い連帯(よくある「同期」の概念)によってもたらされる正義が個々人の目指すべき「正解」になりました。同質的な集団はかなり強力な同調圧力を生じさせるので、この「正解」から逃れるのはかなり難しいでしょう。

その「正解」が実際に正しいかに関わらず、従っていればある程度の安心・安全が得られる一方、自分の考える「正解」が集団の見解と異なる場合はある程度の「修正」を求められることになります。

自分の人生の責任を自分で取るという概念は生まれにくい環境です。

自分の意思よりも他人・社会の意思が優先

他人視点の内在化を強制する教育

本来人間にはそれぞれの意思があり、他人の視点からそれを正確に把握するのは非常に困難。

しかし、訓練すればある程度正確に他人の意思を推し量ることができるようになります。「他人の気持ちになって考える」ことに重きを置く教育を施すことはトレーニングとして機能し、他人の気持ちが分かるようになる(分かったつもりになる)人間を育成することになります。

結果として他人の視点を内在化することになるので、何か行動する前に「相手はどう思うかな?」と考えるクセがつきます。これは不要な衝突を避けて共同体を維持するために非常に重要なスキルです。

ただし一方で、自分の意思と他人の意思の切り分けを困難になったり、他人の意思や場の雰囲気を尊重するあまり自分の意思を主張することができなくなるという弊害もあります。

「自分が多少損をしてでもその場が丸く収まればよい」という発想は、他人視点が行き過ぎた例といえるかもしれません。

高い同質性を志向する社会

他人と自分は同一の指標で測ることができる。そんな教育を受けていると、逆説的に他人との差が非常に些細な物であっても気になるようになりますし、比較困難な要素も何かしらこじつけて比較したくなってきます。

人間はもともと色々な指標で他人と比較したがる生き物ですが、日本では比較できないほど異なる個体が少ない(思想信条の振れ幅が小さい)ため、「自分と同じだろう」「これくらいの年齢ならこうだろう」という指標が大抵の場合当てはまってしまうため、過剰にシンプル化された比較やレッテルはりが横行します。

同質性の高い母集団の中での自分の位置を示す「偏差値」があたかも人生の成功・失敗の全てのように語られるのが代表的な例。

そしてそういった指標を有難がるあまり、いつしかそのような基準が万能で、人間そのものの価値を示せると信じ込むことになります。

もちろん比較は必要な要素ですが、そこでポジティブに違いを認めて個性を伸ばすのではなく、違いをネガティブに捉えて「できないこと」に注力するので、「自分でできた達成感」よりも「他人と同等にできない劣等感」にフォーカスすることになってしまいがち。

結果として「何がどの程度できれば人に認められるのか」を重要視するようになり、ますます「正解を探して穴を埋める」方向に向かってしまいます。

比較による嫉妬・不平不満

違いよりも同じことを強調する同質性が高い社会では、他人と自分の境界線が曖昧になりがちです。人種・民族・国籍のような明確な指標で違いがあれば比較すること自体が無意味であることが明確ですが、近い属性同士は無意識に比較してしまいがちです。

例えば社会階級がそもそも違えば些細な事で比較しないかもしれませんが、近い属性が「もしかしたら自分も同じ機会が得られていたかもしれない」「自分だって頑張れば同じステージに立てるかもしれない」といった期待を生み、それらの期待がやがて嫉妬や不平不満につながることは想像に難くありません。

そのような嫉妬や不平不満は自分がどうしたいという本来の願望を上書きするほど強いものです。

しかも他人を基準にした嫉妬や不平不満は自分の現在の状況とは関係なく湧いてくるので、自分の人生をコントロールするよりも他人に勝ることを優先するようになってしまうと、段々自分の根本の欲求が分からなくなっていきます。

錯覚資産の多さ

比較が大好きな日本人の気質を示すように、本来の実力や本質とは全く異なる錯覚資産が多く生み出されて社会的な力を持っていたりします。

例えば以下のように。

錯覚資産の種類錯覚の内容現実
偏差値・大学ブランド高ければ高いほど頭が良い実際に頭が良いとは限らないし、業務遂行能力や専門性とは無関係。
TOEICスコアが高いほど英語力が高いたとえ満点でも英語で仕事や生活が支障なくできるとは限らない。
資格有資格者は専門性が高い資格による。国家資格ならいざ知らず、民間資格は保有していてもあまり意味のないものも多い。実務経験が全ての場合もある。

これらは他人との差別化において大きな意味を持ちますが、自分に全く関係なくても一定程度の成績を修めておかないといけない気がしてくるから不思議です。

こうして「他人と比較して劣っているところがあるのは悪いこと」「他人が頑張っているところで頑張れない人は社会的に評価されない」という図式ができあがり、個人的な目標達成のための時間やリソースが社会的ステータス願望に吸い上げられていく結果になります。

失敗を許さない不寛容な社会

人と違うことをして失敗するのは自己責任

他人と同じことをすることが正解になるし学校でも他人と同じことをする方法を学ぶことになるため、進んで人と違うことをすることはそもそも想定されていません。

セーフティーネットも基本的に「他人と同じことができない人」のためのものであり、人と違うことをして失敗した人にとことん冷たい制度です。例えば、会社員をクビになった人を助ける制度は色々ありますが、リスクを取って起業して失敗した人を助ける制度は十分に整備されていません。

会社員になるのは「他人と同じこと」の範疇ですが、起業は「他人と違うこと」だから想定されていないので自己責任ということですね。

失敗者に対して「それ見たことか」「だから止めたのに」のような言葉を掛ける人が多いことを考えると、むしろ失敗することを期待している人が多いような気すらします。

一方で人と違うことをして成功した人に対しては、粗探しをしたり、自分とは違うという理由を探して自分を慰めようとします。

他人の言動が許せない正義中毒

他人と違うことをすることは多かれ少なかれ目立ちます。同質性が非常に高い日本社会であればなおさら。

目の届く範囲にそのような人が居れば、自分と関係がなくても一言言いたくなるという心理も働きます。「多数派=正義」と信じて疑わない人が多く、「正義」を代弁するときは容赦がありません。

厄介なのが、同質性ゆえに目立ってしまう些細な違いや、法律を犯さないレベルの個人的な事情であっても正義や倫理といった観点から叩かれる対象になるということ。

ここまでくるともはや「何をしても叩かれる」状況と言って差し支えないでしょう。

この状況でいわゆる「多数派」と異なる行動を取るのはかなり勇気がいります。

個人を組織に依存させるシステム

工場労働者を育成するための学校教育

これまでは他人と違うことをすると受ける心理的プレッシャーについて述べましたが、一方で、他人と違う選択肢を選び取るための能力やスキル(=個人として生きる力)を育てづらいという側面もあると思います。

例えば、日本の学校教育においては、工場労働者に必須の素養である「年長者(教師)の命令に口答えしない」「他の生徒と同じように思考し行動する」ことは教えられても、「自分の意見を理路整然と述べ、必要であれば相手を説得する」「異なる意見や考え方を持った相手と議論をし、折り合う」といったトレーニングは皆無です。

ディベートの授業が単なるケンカになるというところから見ても、このあたりのリテラシーが非常に低いと言わざるを得ないでしょう。

よって、「異なる意見に対面しても自分の心を守る」「自分が譲れないラインを明確にする」「必要に応じ法的手段を取りつつ徹底的に戦う」といった能力が身に付かないため、先に述べた「他人と違うことをして叩かれる」という現象に上手く対処できません。

結果として感情的に対応して炎上させたり、自分を追い詰めてしまったり、という状況に結び付きやすくなります。これでは個として生きていくことは難しいでしょう。

絶望的な金融リテラシーの低さ

現代社会で個人として生きる力として重要なのが、やはり「お金」に関する知識。

学校では「なぜ税金が重要なのか」は教えても、「個々人がどのように資産を守るか」「企業では税金や社会保険料をどのように申告しているか、どのように従業員から回収しているか、給与の仕組み」といった事項は長らくまともに教えられてきませんでした。

また社会の大多数が「被雇用者」であり、各種税金は源泉徴収によって痛税感なく吸い上げられるので、「税金のことは考えても無駄」「知識を身につけるインセンティブがあまりない」という状況になりがち。これは自分で申告納税を行う自営業者とは全く異なる感覚ですね。

レールを外れるということは、このあたりの管理を全て自分の責任で行うということです。最近の若者のように学校の指導要領に金融教育が入り始めたような世代ならまだ多少マシかもしれませんが、それ以外の世代は自分で勉強して身につけるしかありません。

多くの日本人は自分の給与から引かれている税金や社会保険料の仕組みなんて勉強しませんし(そのくせ「高い」「下げろ」と叫ぶ)、会社の作り方なんて知りませんし、どのように合法的に節税するかということにも無頓着。このステージから自立できるレベルまで持っていくのは骨が折れそう。

他人と異なる人生を選択することはこれら全てにおいて個人として責任を持つことなので、躊躇してしまう人も多そうです。もっとも自分で考える必要がないからといって責任を負っていないわけではないのですが、その感覚を得づらいのは確かだと思います。

スキルを磨く時間も気力もない

日本社会は年齢を基準とする社会。大学受験では高校卒業と同時に大学に入る「現役合格」が、就職では大学卒業と同時に働き始める「新卒一括採用」が、それぞれ理想的とされます。

その裏返しとして、「現役合格」ができなければ「浪人」と呼ばれ、「新卒一括採用」を逃すと途端に就職するための要件が厳しくなったりします(最近は第二新卒なんていう枠もありますが)。これはもはやペナルティーのようなものです。さらに転職でも空白期間がマイナスに。

特に就職活動は「自分を知る」「自分の興味を探求する」ことよりも「企業を研究する」ことに重きを置く傾向があるので、まじめな学生ほど「自分が人生で何をしたいのか」をないがしろにしがち。自分が本当にやりたいことを探求するための時間が与えられないままで、狭い経験や知識を基にして有名な企業に自分の興味を無理やりすり合わせて就職するので、ミスマッチや早期離職者を増やす結果に…

自らの意志で立ち止まって人生について考える時間やスキルを磨く時間は基本的には与えられないため、ギャップイヤーやキャリアブレイクのような期間は自分で作るしかありませんが、履歴書の空白期間を生むことになるので、タイミングによっては大きなビハインドになることも。

また業務の上でも、日本企業は完璧主義的です。業務中に全ての体力&気力をコミットするような制度設計になっているため、たとえ勤務時間が短くなっても、業務時間外で個として生きるためのスキルアップに充てるためのリソースは残らないようになっています。

さらに異動や転勤もいまだに会社都合で行われることが多いため、スキルアップのために色々頑張っても報われる可能性は未知数です。これが日本の会社員が勉強しない&的外れな勉強をするような構図を作っていたり。

これでは個人のスキルアップは夢のまた夢ですし、まず「自分は人生で何をしたいのか?」すら分からなくなってします。

これでは自分の生きたい方向を見定めて行動する力は到底つきません。

包括的副業禁止

スキルの身に付かない&若いうちは給料が安いメンバーシップ型雇用をカバーするために近年副業が話題に上ることが多いですが、包括的な副業禁止を就業規則に掲げているところもそこそこありますね(近年は潮目が変わっているようですが…)。

企業がなぜ副業を禁止するのかと言うと、副業によって従業員が「個として自立可能」な状態を防ぐ目的があるからですね。

従業員が「個として自立可能」になってしまうと、待遇改善を交渉してきたり、他社に転職してしまったりと、企業側の言うことを素直に聞かなくなる可能性があります。

もちろん本業で十分にスキルや給料が得られている場合は市場価値がある程度高められるのでこの限りではありませんが、専門性がいつまでも身に付かないような人事制度を維持しつつ従業員に副業禁止を課しているような企業に在籍していると市場価値は年齢と共に下がる一方。その企業にしがみ付く以外の選択肢がなくなってしまいます。

企業からすれば人材を囲い込めて最高かもしれませんが、個人として生きる力は全く養われないままです。

まとめ

日本では「自分らしさ」は邪魔な存在…でも社会のせいにしても始まらない!

日本社会ではなぜレールを外れることが怖いのか?主な要因をざっくりまとめると以下の通り。

  • 他人と違うことをすることは変なこと、悪いことという刷り込み
  • 他人よりも劣っていたくない、他人よりも優位に立っていたいという強い欲求
  • 挑戦を評価しない&失敗は自己責任という意識とその意識に基づく社会制度
  • 個人として生きる力が養われにくい社会環境

レールを外れて生きるための条件である「個人として生きる力」の育成を阻害する要因が非常に多く、さらに「個人として生きた場合のリスクを軽減する手段」に乏しいことから、日本人が「レールから外れること」を非常に恐れるようになるのだと思います。

ただしだからといって自分が何もできないかというと、それもまた違うのではないかと思うのです。自分は自分で、社会そのものではありません。進んで縛られに行く必要はなし!

そして自分にできることは色々とあります。全てをすぐに変えるのは無理だしおそらく歪みが出てしまうので、自分に出来る範囲で少しずつ行動していくのが最適だと思います。

例えば思いつくところだとこんな感じ。もちろん絶対的な答えではないです。

阻害要因考えられる解決法
正解思考・横並び思考異業種交流会に参加してみる、海外旅行をしてみる、本を読む
比較による嫉妬・不平不満SNSに触れない、自分の興味に集中する時間を作る
金融リテラシーの不足本を読む、セミナーに参加する、実際に資産運用をしてみる
スキル不足政府の助成を活用して学ぶ、海外留学する、転職する

いずれにしても「レールを外れる」ことに対する恐怖は「自分の生きる力への自信の無さ」から発生するので、そのあたりが強化できればそのような恐怖は薄れてきそうです。

外に目を向けると少し楽になるかも

文化的な要素はどうしても日本国内だと避けられないので、思い切って海外留学や転職をするのも選択肢に入ると思います。

留学や転職はハードルが高いという場合は、短期間でも海外に滞在してみると感覚が変わるかもしれません。

期待は禁物ではありますが、日本の考え方が絶対ではないという感覚が得られると、情報の取捨選択が上手くなったり、自分が進みたい方向に進む勇気が湧いてくるかも。

もしレールを外れてしまっても悲観しなくても良い

日本の「レール」は、工場に画一的な品質の労働者を供給するためのものであり、社会を上手く回すためのもの。そこには必ず「誰の目から見ても正解と思えるもの」がまことしやかに存在し、誰もが自分の人生をその正解のために捧げています。

レールを外れるということは、その正解を目指すことから解放されるということでもあります。つまり、自分の人生を自分の責任で生きられる(生きなければいけない)ということ。

特にレールを外れたのが自分の意思でない場合は「正しいレール」に乗っている人がまぶしく見えたり、元に戻ろうと頑張ったりしてしまいがちですが、このタイミングこそ「(他人との比較ではなく)本当に自分がしたいことは何か」を考えるチャンスなのではないでしょうか。

そもそも「正しいレール」は人によって定義も範囲も異なりますし、もしまた「レール」に戻りたいなら、自分が戻りたい「レール」の種類を見定めてそこまでの道のりを考え、自分のできる範囲で戻れるように努力すれば良いだけの話。大切なのは「その人生で自分が納得できるか」だと思います。

さらに先に述べたように、世界や環境が違えば「レール」の形も違います。これまでに考えもしなかった幸せに巡り合えるかもしれません。だからもし「日本のレール」が合わなくても絶望する必要はありません。

レールを外れるとかなり強い不安感に襲われますが、大丈夫。自分の人生を自分で作っていく覚悟のできた人間は案外強いものです。

以上です。

この記事が少しでも役に立ちましたら幸いです。

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